波に、乗れ――問題の受け取り方について

そういうとき、皆さんはどう受け取られるでしょうか。
竹田恒泰氏が、こういう趣旨のことを語っておられたのです。
言われてみれば、思い当たることがあります。
旅行に出かける朝、からりと晴れていると、いい一日になりそうだと感じます。ところが玄関を出た途端に雷が鳴ったりすると、幸先が悪いなと思う。そしてそういう日に限って、荷物が出てこなかったり、予約が入っていなかったりする。
日本人は昔から、そういう読み方をしてきました。
メソポタミアで麦作が始まりましたが、当時の農業は効率が悪く、重い労働でした。なぜこれほど苦しい思いをして働かねばならないのか。その問いへの答えが、楽園を追われた物語になります。働くことは罪の償いであり、苦しいのが当たり前だという前提が生まれる。
だから、苦しみには打ち勝つべきものだという発想になる。
一方、日本は山からも川からも海からも食べ物が採れました。採集の比重が長く残った土地です。自然に打ち勝つのではなく、恵みを分けてもらう。 そういう関わり方をしてきた。
この説をどこまで信じるかは、人それぞれだと思います。歴史を一本の線で説明しすぎている、という見方もあるでしょう。
ただ、受け取り方が実際に違うということ自体は、私にも心当たりがあります。
そして、すぐに怖くなりました。
うまくいかないのは神様が止めてくれているのだ、と考えてよいのなら、やめる理由はいくらでも作れます。
少し難しいことにぶつかるたびに、これは合図だと受け取って引き返す。そういう人生も成り立ってしまう。努力を放り出すための、たいへん具合のよい言い訳になります。
竹田氏がそういう意味で言っておられるのではないことは、話の流れを見れば分かります。あの方ご自身が、小学生のころから経営の本を読み、学生時代に会社を作り、二十代半ばで全部整理して鎌倉にこもり、三年間本を読み続けた、と語っておられます。さんざんやった人が言っているのです。
ですが、この話だけを切り取って受け取ると、危ういところがある。そう思いました。
私が長く学んできた姓名科学の体系を打ち立てられた方です。先生は、こう言っておられました。
理由は、考えてみればすぐ分かります。
波に乗るというのは、何もしないことではないからです。
波乗りをする人の姿を思い浮かべてください。あの人たちは、沖で長いこと待っています。波が来るまで何もしていないように見えますが、そうではない。板の上で体勢を整え、沖の様子を見続けています。
そして波が来たら、全力で漕ぎ出す。あの一瞬に間に合わなければ、波には乗れません。
つまり、こういうことになります。
波は実在する、ということです。
上がる時期があり、下がる時期がある。今日の調子が一生続くわけではないし、今の不調も一生は続かない。そういう起伏が、人の一生には確かにある。
牧先生は、その起伏を生涯をかけて調べ、図に表した方でした。ですから「波に乗れ」という言葉は、比喩として出てきたのではありません。波があると本気で考えていた人が、それを前提にして言った言葉です。
波があるのなら、下がっている時期に無理をしても実りは薄い。逆に、上がってくる時期に備えがなければ、せっかくの波を見送ることになる。
どちらも、もったいない。
それでも、向いている方向は同じだと思いました。
自分の力で押し通すのではなく、大きな流れのほうを読む。読んだうえで、自分にできることをする。
私はこれを、日本人に共通する物の見方の一つだと考えています。
農耕のせいなのか、島国のせいなのか、四季があるからなのか。理由は分かりません。ただ、日本人はずっと、自分ではどうにもならないものがあるという前提で生きてきました。天気も、地震も、季節も、自分の都合では動かない。
だから、逆らわない知恵が育ったのだと思います。
この見方が優れている、と申し上げるつもりはありません。
打ち勝つ発想があったからこそ、成し遂げられたことも山ほどあります。病を治し、川を治め、空を飛ぶようになったのは、誰かがそれを試練と受け取って挑んだからでしょう。
ですから、どちらかを選ぶ話ではないのだと思います。
逆らうべきときと、乗るべきときがある。 その見分けがつくかどうかが、結局いちばん難しい。
七十三になりますが、まだ分かりません。
ただ、若い頃に比べれば、少しは待てるようになりました。これは駄目だと思ったときに、無理に押さずに手を止められる。それだけでも、いくらか進歩なのかもしれません。
波が来たときに漕ぎ出せるよう、今日も自分を磨いておきたいと思います。


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