二番風――聞きそびれた言葉について

前を行く筒田芳博先生が、こう言われました。
それまで重かった体が軽くなり、足が勝手に前へ出るようになる。爽やかな風が吹き抜けるようだから、風にたとえるのだ、と。
言われてみれば、私にも覚えがありました。山を登っていて、しばらく苦しい時間が続いたあと、ふっと体が楽になる瞬間があります。あれのことかと腑に落ちました。
なぜ、二番なのか。
一番があるから二番があるはずです。では一番風とは何なのか。それを尋ねないまま、話は次のことへ移ってしまいました。
先生はもう、お亡くなりになりました。
ですから、この問いに答えてくれる人はいません。私が自分で考えるほかありません。
一番は、走り始めの呼吸です。
歩いていたときの呼吸のまま、走り出す。普段の息づかいで、いきなり体を動かし始める。だからすぐに苦しくなる。体はまだ、走るという仕事に合わせていません。
二番は、走りに合った呼吸です。
苦しい時間を経て、体がその運動に適した息づかいを見つける。心臓の打ち方も、脚の運びも、走るという仕事に合わせて組み直される。そこで風が吹く。
つまり、楽になったのは、楽をしたからではありません。 体が仕事に合わせて作り替わったから、同じ運動が楽になるのです。
この解釈が正しいかどうかは、分かりません。先生が別のことをお考えだった可能性もあります。
ただ、答え合わせのできない言葉を、こうして何年も考え続けている。それ自体が、あの日いただいたものなのかもしれません。
仕事にも、同じことが起こります。
新しいことを始めると、最初はとにかく苦しい。勝手が分からず、手が遅く、何をやっても空回りします。毎日が全力で、それでも追いつかない。
ところが、ある時期を過ぎると、急に回り始めることがあります。
同じ量の仕事が、前より軽く片づくようになる。判断が早くなり、先が読めるようになる。人が集まり、話が向こうから来るようになる。
あれは、まさに二番風だと思うのです。
創業された方の話を聞くと、この時期のことを語られる方が多い。最初の数年が地獄のようで、そこを越えたら景色が変わった、と。
苦しくても続けていれば楽になる。そう受け取れば、これは精神論です。そして精神論は、人を殺すことがあります。
マラソンでも、全員に二番風が来るわけではありません。走り込みが足りなければ来ませんし、そもそも体を壊していれば、待っているうちに倒れます。
仕事でも同じです。続けていれば必ず報われるというのは、嘘です。 報われないまま潰れた方を、私は何人も見てきました。
耐えたから吹くのではなく、合ったから吹く。
そして、合わないまま耐え続ければ、壊れます。合うための工夫をせずに、ただ歯を食いしばるのは、二番風を待っているのではなく、順番を間違えているだけです。
二番風は、吹いたことに気づかないまま通り過ぎることがあります。
あの日、先生は「そろそろ二番風が吹いてきた」と言われました。ご自分の体に起きた変化を、その場で言葉にされたわけです。
私はそのとき、何も感じていませんでした。歩くのに精一杯で、自分の呼吸がどうなっているかなど、考えてもいなかった。
今にして思えば、あれは分かれ目でした。自分の状態を外から眺められる人と、その中に埋もれている人の差です。
風が吹いていることに気づけば、そこで歩幅を伸ばせます。気づかなければ、せっかくの風を使わずに過ごしてしまう。
そして、逆のことも言えます。風が吹かないことにも、気づかなければなりません。 いくら進んでも楽にならないなら、やり方が合っていないのかもしれない。そこで休むなり、変えるなりの判断が要ります。
説明されたわけでも、教えられたわけでもありません。ご自分の体に起きたことを、山の上でつぶやかれただけです。
それを私は、何十年も抱えてきました。なぜ二番なのかという宿題つきで。
人から受け取るものというのは、案外こういうものなのかもしれません。まとまった教えではなく、その場で漏れた一言。そして、聞きそびれたことが、かえって長く残る。
今日も、仕事は山積みです。二番風が吹いているのかどうか、自分では分かりません。
ただ、呼吸だけは、たまに確かめるようにしています。

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