第五章・いのちの時代 連載第百三十九話 三百六十五日

緊急搬送された病院で、筒田先生は一週間ほど集中治療室で加療を受け、やがて一般病棟へ戻ってこられた。だが、脳への損傷は隠すべくもなかった。歩行にも、認知にも、致命的な問題が現れていた。
お嬢さんには、もう以前の施設に先生を戻すお気持ちはなかったのではないか、と彼は思う。それについて、多くの言葉が交わされたわけではない。ただ、そういうことなのだと、互いに分かっていたように思う。
そこで名前が挙がったのが、青梅慶友病院という医療機関であった。
ここには医師が常駐しており、何か問題が起きても直ちに対処ができる環境が整っていた。特別養護老人ホームで働き、訪問介護の現場を知り、通常の老人ホームも数多く見てきた彼の目に、そこは理想的な介護の現場と映った。
間違った対応というものを、彼はこの施設で一度も見たことがない。すべての業務が、常に利用者に寄り添い、利用者の目線から成り立っていた。設備でも、理念の掲げ方でもない。そこで働く人たちの、日々の所作そのものが、そうであった。
当然ながら、彼のような貧乏人が入所することは到底かなわないほど、費用の高い施設ではあった。ただ、高額であれば良いというものでもないだろう。世の中には、金だけを取って利用者をないがしろにする施設も、それなりにあるのかもしれない。そう思うと、費用の多寡は、良し悪しの目安にはならないのだと思う。
先生が入居された日、彼はミカンと大福を持って見舞いに上がった。先生はそれらを、まるで健常者のように召し上がった。その姿を見て、彼はどれほど安心したことだろう。入居された当初は、リハビリによって歩行も会話もできていたのである。
それから彼は、ほぼ毎日、先生のもとへ日参した。家族でもない、六十を超えた元特別養護老人ホームの職員が、来る日も来る日も見舞いに現れる。その施設で、彼はある意味、注目を浴びる存在だったのではないかと思う。誰にどう見られていたのかは分からない。ただ、通わずにいられなかっただけである。
信じられないかもしれないが、武漢肺炎の流行までは、この施設では一年三百六十五日、何時に訪ねても、家族と面会することができた。夜であろうと、早朝であろうと、である。こんな施設を、彼はほかに知らない。
そして流行が始まってからも、この施設は面会をやめなかった。面会の場所をしっかりと隔離し、看護師が付き添って、会わせてくれたのである。
それが、どれほどのことであったか。
彼の父が最後に入居していた施設は、武漢肺炎以降、面会謝絶となった。次に施設から呼ばれたとき、それは臨終の知らせであった。生きた父の姿を、彼はついに見ることがかなわなかった。
会えたか、会えなかったか。その違いは、残された者の一生を、静かに、だが決定的に分ける。同じ流行の下で、片方は隔離と付き添いという手間を選び、片方は扉を閉ざした。どちらにも事情はあったのだろう。それでも、その選択が何を分けてしまうのかを、彼は身をもって知ることになった。
歳月を経た今、振り返って、思う。前の話で、施設を見る目について書いた。だが、見る目を持つということは、悪い場所を見分けるためだけにあるのではない。良い場所は、確かに存在する。それを知っているということが、預ける者にとってどれほどの支えになるか。
生かされて、今を、存在する。理想の現場というものがこの世にあることを、自分は先生の晩年を通して、この目で確かめさせてもらった。
入居された日、ミカンと大福を健常者のように召し上がった先生のお姿を、今も、自分は、確かに、覚えている。
#牧正人史 #マシレ予測 #至誠の覚醒 #姓名科学


コメント