第五章・いのちの時代 連載第百二十四話 千の歌

東府中の、施設で、彼は、あることを、始めた。
昼食の、時間。食堂に、集まった、利用者さんたちから、リクエストを、取って、好きな音楽を、流したのだ。誰に、命じられたわけでも、ない。ただ、この人たちに、食事の、ひとときを、少しでも、楽しんでほしい。その、一心だった。
彼は、いつも、そうだった。困りごとや、願いが、あれば、自分で、工夫して、かたちに、する。特養で、シフト表を、作ったように。ここでは——音楽を、集めた。
リクエストは、実に、幅が、広かった。
ある方は、古い、軍歌を、望んだ。ある方は、なつかしい、歌謡曲を。ある方は、驚くことに、その頃の、最新の、ポップスを、口にした。年老いても、新しい歌が、好きな人が、いた。演歌、童謡、唱歌、映画の、主題歌。一人ひとりの、望む歌が、みな、違った。
それも、そのはずだった。
一つひとつの、歌は——その人の、人生の、歌だったのだ。誰かの、青春の、一曲。誰かの、故郷の、調べ。誰かの、家族と、過ごした、日々の、記憶。歌は、ただの、音では、なかった。その人が、生きてきた、時間そのものが、その、数分の、旋律に、畳み込まれていた。
軍歌を、望む方も、いた。
その歌が、流れると、その方は、目を、細めた。遠くを、見るような、目だった。若かった、日々。もう、戻らない、時代。その歌は、その人にとって、消すことの、できない、記憶と、結びついていた。彼は、その歌の、善し悪しを、その場で、論じようとは、思わなかった。ただ、その方の、遠い目を、静かに、尊重した。それが、その人の、人生だった。それで、よかった。
こうして、集めた曲は——やがて、千曲、近くに、なった。
軍歌から、最新の、ポップスまで。ひとつの、施設の、食堂に、これほど、幅の広い、音楽が、流れた場所も、そう、なかっただろう。利用者さんたちにとって、それは、良い、ひとときに、なった。彼は、ひそかに、そう、自負している。
歳月を経た今、振り返って、思う。
あの、千曲は——今も、彼の、手元に、残っている。小さな、機械の、中に、あの日、集めた、歌が、そっくり、しまわれている。ときおり、彼は、それを、再生する。すると——あの、食堂が、よみがえる。あの方の、遠い目。あの方の、口ずさむ、声。リクエストを、告げた、あの、笑顔。
その多くは、もう、この世に、おられない。彼が、送り出した方々も、いる。けれど——その人が、選んだ、一曲は、消えずに、残っている。歌の中に、その人が、生きている。旋律が、流れるたび、彼の、胸に、あの人たちが、帰ってくる。千の歌は、千の、人生の、記憶だった。それは、彼が、いのちの現場で、受け取った、消えない、宝物だった。
生かされて、今を、存在する。
昼餉の食堂に流した、千に近い歌の一つひとつと、それを望んだ方々の遠い目や笑顔と、今も手元に残るその調べのことを、今も、自分は、確かに、覚えている。
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