第四章・覚醒の時代 連載第九十話 目にゴミが入った

ある夜のことを、若い夫は、母から、聞いた。
息子が、布団の中で、泣いていたという。
母が、気づいて、布団の傍に、寄った。「どうしたの」と、声をかけた。息子は、布団を、目元に当てて、こう、答えたという。
「目に、ゴミが、入った」
母は、それを、聞いた。聞いて、それ以上、問いただすことを、しなかった。ただ、布団の傍に、いた。少しの間、何も言わずに、座っていた。
息子は、布団の中で、しゃくり上げていた。母は、ただ、傍にいた。辛抱強く、いた。
どれくらいの、時間が、過ぎたか。やがて、息子が、布団の中から、小さな声で、こう、言ったという。
「ぼく、さみしいんだ」
母は、その言葉を、聞いた。
それから、母は、息子に、何と、声をかけたのか、若い夫には、伝えられなかった。母も、たぶん、そのとき、多くは、語らなかったのだろう。ただ、息子の傍に、いた。それで、十分だった。
後日、母は、若い夫に、その夜のことを、話した。淡々と、話した。けれども、若い夫には、わかった。母が、なぜ、その話を、自分にしたのか。
息子は、平気そうに、見えていた。父母の手の中で、笑顔で、過ごしていた。サッカーをやり、学校へ通い、家で、ご飯を食べていた。表面では、何ごともなく、育っているように、見えた。
けれども、布団の中で、息子は、泣いていた。
「目に、ゴミが、入った」と、最初は、ごまかした。本当の理由を、すぐには、口に出せなかった。それを、母が、辛抱強く、引き出した。「ぼく、さみしいんだ」と。
実の母が、いない。その穴が、息子の心の中に、確かに、開いていた。父母の愛情が、どれだけ、深く、注がれても、その穴は、塞がらなかった。母という存在の、固有の形は、母にしか、埋められなかった。
若い夫は、その話を、聞いて、しばらく、何も、言えなかった。
自分は、これまで、何を、していたのか。
子供が、学校でいじめにあっているらしいといううわさが入った。若い夫は、会社を休んで、子供たちが家路につくのを待った。学校から、家に帰るまで、2キロの坂道だ。
子供たちは、息子にランドセルを背負わせて、周りではやし立てた。
息子は、必死で我慢して、その仕打ちに耐えていた。
若い夫は我慢できず、後ろから我が息子のランドセルに回しけりをいれた。
息子は前に倒れたが、若い夫は息子に対して、叫んだ。
やられたら、やり返せ。いつもいい子でいる必要はないぞ。
と。
息子をいじめていた子供たちは、唖然とし、次に恐怖で顔が引きつった。若い夫は、それ以上は何も言わなかった。
いじめていた子供たちは、自分のランドセルやカバンを拾うと、蜘蛛の子を散らすように散っていった。
仕事に、悲しみを、ぶつけていた。それで、自分の心を、守ってきた。サッカーのコーチを、していた。ランドセルを、蹴って、「やられたらやり返せ」と、叫んだ。それは、息子のために、できる、自分のすべてだ、と、思っていた。
けれども、それでは、足りなかった。
父にできることと、母にしかできないことが、ある。父の愛情と、母の愛情は、形が、違う。息子の心の中の、母の穴は、父では、塞げない。そのことを、若い夫は、母から聞いた、その夜のことで、はっきりと、突きつけられた。
これまで、若い夫は、自分の心の整理が、つかないことを、理由に、後添えを、求めて来なかった。自ら選んだ別れではなかった分、新しい人を、迎え入れる気持ちには、なれなかった。それは、若い夫の、誠実さでも、あった。
けれども、それは、自分の気持ちの問題だった。
息子の心の穴を、塞げる人が、いない。母という存在を、息子に、与えられていない。自分の気持ちを、優先することで、息子の中の、本当の悲しみを、見ないふりを、してきた。それは、自分の誠実さでは、ない。自分の都合だった。
若い夫は、その夜のことを、聞いた後、考えを、変えた。
息子のために、新しい母を、迎える。それが、父として、しなければならないことだった。自分の気持ちは、横に、置く。息子のために、動く。
若い夫は、再婚に向けて、心を、開いた。
それまでの、長い、長い、時間。妻を失った、その日から、何年もの時間。その間、若い夫は、息子のことを、考えていなかったわけでは、なかった。けれども、自分の心の整理を、つけることが、できずに、いた。息子の表面の笑顔を、見て、安心しようとしていた。
「ぼく、さみしいんだ」
息子の、布団の中の、その一言が、若い夫の、長い、停滞を、動かした。
母が、若い夫に、その話を、伝えてくれた。母は、その話を、若い夫に伝えることが、息子のためだ、と、わかっていた。母は、若い夫を、責めなかった。ただ、その夜のことを、淡々と、話した。それだけで、十分だった。若い夫は、自分が、何を、しなければならないか、わかった。
四十年が経って、振り返って、思う。
あの夜、息子が、布団の中で、母に、「ぼく、さみしいんだ」と、告げてくれたこと。母が、辛抱強く、息子の傍に、いてくれたこと。母が、その話を、若い夫に、伝えてくれたこと。その三つが、揃わなければ、若い夫は、長い停滞から、抜け出せなかった。
息子と、母が、若い夫を、動かしてくれた。
若い夫の、人生の、次の章が、その夜の、布団の中の一言から、開かれていった。
生かされて、今を、存在する。
あの夜、布団の中で「ぼく、さみしいんだ」と告げた息子と、辛抱強く傍にいてくれた母と、その話を聞いて、長い停滞から、ようやく動き始めた若い夫を、四十年経った今、自分は、確かに、覚えている。
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