◆ 「四国艦隊下関砲撃事件」と「薩英戦争」 ◆『かけがえのない国 誇り高き日本文明』武田邦彦著 MdN出版(R05年)より

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◆ 「四国艦隊下関砲撃事件」と「薩英戦争」 ◆

幕末に欧米各国が日本に迫った「開国」とは、実質的に日本に植民地化を迫るものでした。
西洋列強の激しい嵐はすでにトルコ、インドから東アジア、中国に吹きすさんでいました。これは、まさに「蒸気の力」と「鉄の生産力」という工学がもたらした結果です。
元々攻撃的な狩猟民族であり、さらにはキリスト教の教義をバックボーンとするヨーロッパ人は、我々こそは世界を征服するに足る立派な民族だ、と確信していました。
アフリカは言うまでもなく、インド、インドネシア、ベトナム、中国、そしてフィリピンに至るまでが欧米の植民地と化しました。
そうした中、幸い日本は植民地とはなりませんでしたが、欧米列強との激しい衝突がたびたび起こっています。

1864年、「四国艦隊下関砲撃事件」と呼ばれる事件が起こります。四国とは、イギリス、フランス、オランダ、アメリカの列強4国のことです。
前年の1863年、孝明天皇の強い要望で将軍徳川家茂が外国を排撃する攘夷実行を約束、幕府は軍事行動を予定していなかったものの、長州藩が現在の関門海峡である馬関海峡を通過するアメリカ、フランス、オランダの船に対して砲撃を実施しました。四国艦隊下関砲撃事件はその報復のために列強4国が起こしたものです。
1863年、薩摩藩と大英帝国の間に「薩英戦争」も起こっています。下関における戦闘も薩英戦争も日本側が一方的にやられて終わったと教えられることが多いのですが、事実はまったく違います。
薩英戦争は、1862年の「生麦事件」をきっかけに起こりました。生麦事件とは、横浜港に近い武蔵国橘樹郡生麦村付近で薩摩藩主島津茂久の父•島津久光の行列に遭遇したイギリス人たちを供回りの藩士たちが斬り付け、1名が死亡し2名が重傷を負った事件です。
イギリス人は馬に乗っていました。行列の先頭にいた薩摩藩士が馬を降りて道を譲るように伝えましたが意思疎通は叶わず、イギリス人を乗せた馬は行列の中を逆行しました。久光の乗る籠に近付いたところで殺傷事件は起きました。
生麦事件は国際問題となり、イギリス側は江戸幕府に対して損害賠償請求を行い、幕府は賠償金を支払いました。イギリスはさらに薩摩落に対して報復すべく、大英帝国艦隊を薩摩湾に派遣して砲撃し、薩英戦争が始まります。

『かけがえのない国 誇り高き日本文明』武田邦彦著 MdN出版(R05年)より R080515

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