私たちは最終的にどのような社会をめざしたらよいのでしょうか。現在の文化的生活をあまり大きく崩さない、という前提つきです。もし、江戸時代に帰るとか、ネアンデルクール人のような原始的生活がよい、ということになると難しくなります。昔から、過去を懐かしみ、原始的生活にあこがれるというのは近代人だけではありません。
『森の生活』というアメリカ人のH・D・ソローが最近書いた本がベストセラーになりました。確かに現代のようにビルに囲まれスケジュールに追われた社会では、あるときに森の中に入り、原始的生活をすることにあこがれます。しかし、それをすべての人がやろうとすると森が都会になるだけです。
乗鞍岳の頂上までバスとロープウェーで行けるようになると乗鞍岳は「大衆化」します。それによって今まで自然が保たれたところに排気ガスが充満し、バスが駐車し、大勢の人が行き来します。さらにお団子屋やコーラの自動販売機、お土産屋が出現します。
山を愛し、乗鞍岳の自然を楽しんでいた登山家には苦々しいことでしょう。しかし、足が悪い人、年輩の人、体の弱い人などはバスが通りロープウェーがなければ乗鞍岳の頂上からの絶景を楽しむことはできません。自然の素睛らしい景色を楽しむのは体が頑健な一部の登山家の特権なのでしょうか?
みんなが乗鞍岳の頂上から景色を楽しむことは悪いことなのでしょうか?
日本の江戸時代にも、自然の中の原始的生活にあこがれて森の中に入った人がいます。私たちが自然を愛し、自然の中で暮らしたいと思う願いは誰でも同じですし、それを特別な人たちの特権にしてはいけないのです。
私たちのめざす世界はどのようなものでしょうか?
そしてそれはリサイクルを伴わなくても現実的に可能なのでしょうか?
本著で示しためざすべき社会は、まず第一に「共白髪」でものを大切にし、ゴミはできるだけ近くですべてまとめて焼却することです。
東京都はあるときからゴミ袋を半透明にしました。その理由は分別しない人を周囲で監視したり、危ないものが入っていないか確認するためと説明されています。また、袋を炭酸カルシウム塩素系の化合物にすることにより、焼却によるダイオキシンの発生を抑制する働きも期待されます。
ゴミはあまり人に見せたくないもので、自分の家から出るゴミがどんなものかご近所に知られたい人はいないでしょう。そして、そんなことをご近所で監視されるようなシステムを作るのは好ましいことでしょうか。もともと「分別」は環境を悪化させますし、それに労力と神経を使うことは無駄です。ゴミ袋は中身が見えないものを気軽に出し、大型ゴミもできるだけ普通のゴミとまとめて出します。それによって「ゴミの中身」は変わらないので、焼却や処理が容易になります。
「黒いゴミ袋、分別なし、大型ゴミなし、全量焼却」という単純な方法は、心理的負担が少なく、毒物も蓄積せず、環境に良く、国内を循環する低価値のものが減って日本経済も強くなるのですから、躊躇せずに実施した方が良いと思います。
次に焼却から出た元素系の資源は人工鉱山として蓄積して将来に備えます。元素系の資源はその容積が少ないので、現在の廃棄物処分場を「人工鉱山」にすれば四〇〇年以上もちます。廃棄物貯蔵所の満杯の問題もすっかりなくなります。人工鉱山は天然の鉱山と基本的には同じですから、ある程度の毒物を含みますが、私たち自身が使った毒物ですから、できるだけ安全に注意して保管するのは私たち自身の責任です。そしてその毒物も有用な資源として将来に使えます。
さらに体を使って無駄なものを使わないようにします。日本は地球上で唯一の「温帯、比較的大きな島」の国です。気候温暖、優しい国民性、高い道徳観など日本は世界で希な国です。決して、アメリカやドイツの真似をしないで日本の利点を活かし、心が解放された自由な社会を築くことが私たちの本当の願いです。
「リサイクル」は本来、私たちの環境を良くしようとして始まった運動です。そして「環境」とは資源、ゴミ、毒物などのような物質の他に「心の環境」があります。誰がどんなゴミを出したか監視する隣近所、分別しないことを非難する同僚、汗水垂らして洗剤だらけになりマヨネーズの容器を洗う主婦、マンションで監視する管理人、そんな監視社会が「心の環境」に良いのでしょうか? リサイクル産業、静脈産業は本質的に効率が低い産業です。そのために、日本には今後「二重賃金制」「階級制」が復活するでしょう。アメリカやヨーロッパのリサイクルは階級制とどのような関係になっているのか、リサイクルを進める専門家は口を閉ざしています。社会の高度化によって「結果的に階級制が生まれる」ことはあるかもしれませんが、リサイクルや静脈産業のように、「国を挙げて階級制を奨励する」ことは望ましくありません。
私たちの日本は昔から本格的な階級制を持たない国でした。それに対して欧米は基本的に階級制の国です。また、日本も一時は欧米の真似をしてアジアの国を苦しめましたが、アメリカやヨーロッパは数百年にわたって他の民族を苦しめ、その苦しみのもとで繁栄してきました。「暗い国の文明」を真似ることはないでしょう。
私たちは環境を弄(もてあそ)んではいけないと思います。
明治時代の日露戦争のときに二〇三高地に突撃して死んだ兵士は日本のために身を惜しみませんでした。太平洋戦争のガダルカナルの戦いで日本刀を振りかざして突撃した兵士は「野蛮だ」とか「無謀だ」と非難されていますが、彼らは日本を守るために必死だったのです。そしてあの砂浜に散った私たちの先輩の心は、現代の我々のように汚れてはいませんでした。遠く故郷から何千キロも離れた孤島で、私たちのかわりに死んでいったのです。
それは日本の中で苦労した多くの人も同様です。狭い国土一面に田んぼを作り、苦しい生活の中で歯を食いしばって鍬を振るってきた農家の人、そしてそれを支え、大勢の子供を育てたお母さん。みんな真面目に一所懸命にやってきました。
それに対してリサイクルを含めた現代の日本の環境への取り組みは見ていられないほど低い倫理で動いています。「再生紙を使っています」という名刺を見せて販売量を増やそうとしている会社、会社では増産に努めながら市民としては環境運動をしているサラリーマン、本来、専門家として冷静でしっかりした意見を述べるべき人が地位や研究費を守るために都合のよいことをいう、マスコミもそれに同調することなど、これまで日本の繁栄を願い、苦労し、死んでいった人はどう思うでしょうか?
『リサイクル汚染列島』(青春出版社)武田邦彦著より