「環境倫理」と「倫理の及ぶ範囲」について言及します。現在では日本は資源がなく、消費国です。
そして現在の資源国の多くは発展途上の国です。その国から資源を購入し、その資源で日本が消費します。消費した資源を焼却して、人工鉱山として蓄積すると、やがて日本が資源国になり、現在の資源国の資源が枯渇します。この行為は全体として環境倫理に適合するのでしょうか?
「倫理」はとても複雑な学問で、単に「何をしてはいけない」というものではありません。むしろ、イギリスの哲学者ベンサムなどがいっているように「倫理とは快楽」なのです。倫理の規範として神のような存在を仮定すると、人生や具体的な行為に対して「○○すべきである」ということを決めることができます。しかし、全員が人間の場合にはそれぞれに価値観があり、それを相互に尊重しなければなりませんので、誰かの経験や考えから「○○すべきである」とされるととても不都合がおきます。
そこで、「倫理」とは「できるだけ多くの人ができるだけ幸福な人生を送れるためにみんながする行為の規範」とするとすっきりします。幸福な人生というのを快楽と簡単にいえば、倫理とは快楽となります。
次に倫理の及ぶ範囲を考えます。たとえば一〇億光年の彼方(かなた)に星があり、そこは酷い奴隷制度がしかれているとします。それを知ったあなたはすぐロケットを作って奴隷を助けに駆けつけるでしょうか? もちろん現実的な話ではありませんし、論理的にも倫理はそこまで及びません。それではアフリカで虐殺があったときに、それについて行動を起こすことはあるかもしれません。日本の中で酷い倫理的な行為があればみんなはいっせいに非難します。
つまり倫理は絶対的なものではなく、自分の知覚できる範囲から多少外側まで及ぶと考えられます。アメリカの白人男性がエルギーと物質を使い放題に使い、世界の人が仮にアメリカの白人男性と同じ石油を使ったとすると、二〇〇四年に世界の石油は完全になくなります。そのアメリカの白人男性が中心となって世界の二酸化炭素の削減を京都会議で訴えるのは多少滑稽です。そしてその白人男性の後ろについて二酸化炭素の削減を叫ぶ日本人も少し考えた方がよいと思います。しかし、もし倫理が自分の知覚の範囲に限定されるのなら、アメリカの白人男性は、自分たちが圧倒的に石油を使っているから二酸化炭素の増加に伴う地球温暖化が起こるのだが、その影響を受けるのも自分たちだ。したがって今はほとんど石油を使っていないアフリカの国も一緒になって世界全体で石油の使用量を削減しよう、という表面的には身勝手な主張も一応論理的には理解できるようになります。二酸化炭素の影響は世界全体に及ぶが、アメリカ人の倫理はアメリカ人の知覚の及ぶ範囲に限るというわけです。
東洋の倫理ではそこまで徹底できませんが、資源のない日本が消費した資源を人工鉱山として貯蔵する程度のことは国際的な環境倫理として認められると思います。
なお本著では、二酸化炭素の増加による地球の温暖化についてはあまり触れていません。それは後に述べるように廃棄物の焼却は石油の総輸入量の削減になるので、結果的に焼却によって二酸化炭素の増加がないことが直接的な理由です。また間接的には、著者には二酸化炭素と地球温暖化、さらに地球温暖化と地球環境の関係について明瞭な結論を得ていないからです。確かに多くの解説書や論文を読みますと、地球は温暖化しており、自分の実感としても昔より暖かくなっています。海面も徐々に上昇しており、氷河の後退も見られます。
しかし一方では地質学的には現在は地球が寒冷化している最中であり、その方が怖いという報告もあります。そしてもう少し地表の温度が上がればシベリアなどの森林が繁茂し、大気全体の湿度が上昇して極地の氷はむしろ増加し、さらに砂漠も減少するという論文も見られます。海の水の膨張はかなりの時間がかかるようで、単純に気温の上昇と海水面の上昇との関係を結びつけるのも難しいようです。また二酸化炭素と地球温暖化の問題は国際政治がかなり深く絡んでいて、地球湿暖化の危険性を指摘している専門家が科学や環境の問題として捉えているか、あるいは政治の枠組みとして考えているかが不明だからです。
本著は二酸化炭素の増加とは一応関係が薄いので、あえて二酸化炭素と地球湿暖化の関係に触れませんでした。この議論はさらに深く考えないと国別の現状の経済格差をそのまま固定する政策に同調することになり、方向を失いかねないと思います。
『リサイクル汚染列島』(青春出版社)武田邦彦著より