第四章・覚醒の時代連載第九十三話馬鹿なことを言うな

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第四章・覚醒の時代連載第九十三話馬鹿なことを言うな

第 四 章 ・ 覚 醒 の 時 代

連載第九十三話

馬鹿なことを言うな

課長職に、就いたばかりだった。

同期に、遅れながらも、ようやく、手にした椅子だった。多くの人が、望んでやまない、その椅子を——彼は、捨てようと、していた。

家族には、こう、伝えた。「福岡の工場に、異動になった」と。

嘘だった。

異動では、なかった。彼は、日産を、辞めるつもりだった。辞めて、福岡へ、行く。牧先生の、おられる土地へ。けれども、そのことを、妻には、言えなかった。言えば、止められる。当然だった。課長になったばかりの夫が、その職を、捨てて、占いの師のもとへ行く——そんな話を、誰が、受け入れるだろう。

だから、彼は、嘘を、ついた。今、思えば、とんでもないことだった。けれども、あのときの彼には、それしか、なかった。

牧先生は、すでに、福岡に、隠居しておられた。そのお宅は、先生を私淑する、博多のホテルの社長が、用意したものだった。

彼は、単身、その家を、訪ねた。

そして、告げた。「日産を、辞めて、福岡に、来たいのです」と。

牧先生は、彼を、見た。しばらく、何も、言わなかった。それから、こう、言った。

「馬鹿なことを、言うな」

師の、声だった。

「東京育ちの、お坊ちゃんが、いきなり、福岡に来て、なじめるはずが、ない」

突き放す、言葉だった。弟子の、無謀を、たしなめる、言葉だった。先生は、わかっておられたのだ。福岡という土地が、よそ者に、どういう場所か。東京で生まれ育った彼が、そこで、どれほど、苦労するか。だからこそ、止めようと、された。

けれども。

彼の、気持ちは、変わらなかった。

師に、一喝されても。馬鹿だと、言われても。彼は、福岡へ、行く。その決意は、揺るがなかった。なぜ、そこまで、思い詰めたのか。今となっては、うまく、説明できない。ただ、行かなければならない、と、心が、決めていた。理屈では、なかった。

四十年後の今、振り返って、思う。

あれは、自分の、意志だったのか。それとも、何かに、導かれていたのか。課長の椅子を捨て、家族を欺き、師に一喝され、それでも、福岡へ、向かった。常識では、考えられない。けれども、彼は、そうせずには、いられなかった。

生かされて、今を、存在する。

師に「馬鹿なことを言うな」と一喝されても、なお福岡へ向かおうとした、あの頃の自分を、四十年後の今、自分は、確かに、覚えている。


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