私は現場の教師でしたから、高校教師時代には高校生から、大学教師のときには大学生から必ず質問されたのが次のことです。
「先生、支那と中国とは同じなのですか」
「支那と言ったら、いけないのですか」
この質問に多くの先生たちは、どのように答えているのでしょうか。私は次のように、事実を指摘しています。

日本の敗戦により、支那(中華民国)は日本占領に戦勝国として参加し、日本政府に対して「支那」の呼称の禁止を命令しました。一九四五(昭和二十一)年六月のことです。
だから、日本の外務省は総務局長、岡崎勝男の名で、「支那の呼称を避けることに関する件」という公文書を発しています。六月六日です。文面は次の通りです。

「中華民国の国名として支那という文字を使うことは過去に於いては普通行われていた処であるが、其の後之を改められ中国等の語が使われている処、支那という文字は中華民国して極度に嫌うものであり、現に終戦後同国代表が公式非公式に此の字の使用をやめて貰いたいとの要求があったので、今後は理屈は抜きにして、先方の嫌がる文字は使わぬ様にしていきたいと考へ、念のため貴意を得る次第です」(かな遣いを現代風にしました)

この局長名の公文書は、都下の新聞社や出版社に対して出されたものです。
翌七日には各省の次官あてに同様の公文書が送られ、七月三日には文部省次官が各大学・専門学校に通達し、内務次官通達により各県知事が全ての学校に指示したことにより、日本の学校やマスコミの世界から、「支那」の文字が消えました。

局長通達の中にいう「理屈は抜きにして」というくだりに、一抹の悲哀を感じるのは私だけでしょうか。国会図書館で簡単に閲覧できます。私はコピーを手元において、今これを書いています。

理屈は抜きにしても、支那の語は蔑称ではありません。あの三蔵法師たちがインドに赴き仏典の漢訳をしたときに「支那」の語を用いています。中国人たちが「支那」の語を使い始めたものです。インド人が「シナ」と発音していただけのことです。チャイナ・チノ・ヒーナなどと同じなのが支那です。これは「理屈」としても、「中国」という語は尊称であることは、日本人は気が付いているのでしょうか。
「理屈」ではなく、次のことは日本人の常識であったはずです。

東西南北の蕃人をそれぞれ北秋、東夷、南蛮、西戎と蔑称し、野蛮人どもを教導する(文化する)中華の国が「中国」なのです。敗戦国の日本人は敬称たる「中国」の語を用いよ、との命令なわけです。「日の本」などと尊大な呼称に対して、支那の「支え」は漢字の国の民の感覚からは、許せないという感情もあったでしょう。
いずれにしても、日本人は中国と敬称し続けています。
中国人にすれば、可笑しくてたまらないでしょう。日本人の中は二つに割れると思います。このまま尊称し続ける人と、なんで中国だけをそのように尊称しなければならないのかと疑問を抱く人たちの二つに、です。
日本人は「支那」だけを尊称しているのです。イギリスなどと、無茶苦茶な略称です。
「大ブリテン島および北部アイルランド連合王国(UK)」が正式な国名です。イギリス人がこんな略称はけしからんと抗議してきたとは、私は寡聞にして知りません。中華人民共和国の略称は、「中共」で充分ではないでしょうか。
知らぬ顔の半兵衛の日本人たちは、故意なら反日本の底意を蔵しているのです。マスコミの世界にはこの手の反日本の心情を隠している人が、実に多い。大学教師・学校教師の中にも、多くの人たちが反日本の本心を隠しています。隠された底意の大部分は、隠蔽されることによって劣情と化します。だから、私はこのような人たちを反日劣情日本人と呼ぶことにしています( 詳しくは、拙書『日本人が知ってはならない歴史」(朱鳥社)を見ていただければ幸甚です)。

敬称する相手には平伏するのは、ごく自然な人間風景です。
「中国」(ですぞ!)に、日本が平伏するのは至極当然なわけです。そして、これにはある巨大な論理が付属しているのですから、問題が厄介なのです。
巨大な論理とは、何でしょうか。
それは、日本は中国を侵略した、という大論理です。中国共産党が支那を支配する正統性は、日本帝国主義の侵略から中国人民を解放した、という一点に依拠しています。
「南京大虐殺」等々のストーリーや各種の虐殺記念館の類は、共産党支配の建国神話とその荘厳装置にほかなりません。
見てきたように支那と日本の戦争は、日本が始めたものではありません。日本は戦争の準備も計画もないままに、ずるずると戦争に引きずりこまれていきました。支那事変の企画者はコミンテルン(世界共産党)とその指導下の中国共産党でした。
これを明らかにしたいというのが、本書を書いた目的の一つです。明らかにしたいというよりは、しなければならないという義務感です。私は定年まで、高校の社会科の教師でした。大学の先生は、自分の専門というフィールドがあります。高校の教師は、縄文時代から平成バブルまで教えなければなりません。
「私は鎌倉が専門だから」と、他を放り出すわけにはいかないのです。正直に言って、少なくはない歴史の先生が近現代史を逃げています。逃げない勇敢な先生の中で、少なくはない人が非常に歪んだ史観の上で勇敢な授業を展開しています。コミンテルン史観とか、講座派史観で書かれている教科書(教科書の大半がこれです)をまじめに講述しています。だから、生徒たちは日本は罪悪国家なんだとプリントされて高校に入学してきています。生徒たちは歴史の近現代史は日本の罪悪史を習う時間なのだと観念しています。
そこで、私のような人物の授業に出会うと、戸惑います高校生はこう言ったものです。

「先生、日本は悪い国ではないんよね………うちのおじいちゃんは中国に行ったんだって………戦争によ。日本の兵隊を中国の人たちは中国の軍人や役人より信用していたって言うけど先生、本当?」
「私は終戦の時は三歳だから(笑い)、事実は見ていない。ただ 、私も同様の話は聞いたことがある。中国の民衆が一番に恐れたのは、中国の兵隊だとは聞いたし、読んだことはある………日本軍が占領すると、逃げてた村の人が戻って来たと多くの本で読んだことはある………」
大学生の中には、こう言った者もいた。
「あのう………先生は右翼チックなのですか?(笑い)」
「私は右翼や左翼のどちらでもない。右翼も左翼も私には近づかない。私は自分では空軍のつもりだ。同じ平面だけなら、右か左もあるが、空軍なら右も左も見下ろして飛ばないと墜落するし、な(笑い)」

「南京大虐殺」の虚構を詳しく説明したあと、大学生の一人は「ある派、少しある派、まぼろし派とあるそうですが、先生はどの派に近いのでしょうか」と遠慮がちに聞いてきた。私は即座に答えた。「私はでっちあげ派です」「は?」という顔をしていたので、「意識的に、ありもしないことをでっちあげたのだから、まぽろし派でもないよ。二十万人の人口を皆殺ししても三十万人にはならない。ひとつには、原爆での三十万人の日本人虐殺に数を合わせたという説もある(騒然)」

満洲事変はどうなのか、との詰問があるでしょう。
日本人の「満洲事変は日本の侵略」という歴史認識を、歴史を知る中国人は笑っているに違いありません。日本人の認識には大きな事実が二つ飛んでいるからです。
日露戦争の前にさかのぼります。
一八九六( 明治二十九)年に露清密約が成立します。日清戦争の翌年です。ひとつは、日本と開戦になれば露清は協同して日本に当たる、という同盟密約です。
もうひとつは、満洲の主権の大部分はロシアが買収していたという事実です。つまり満洲はロシアのものだったのです。李鴻章の受け取った収入は膨大なものだったと諸書は伝えています。義和団事変(一九〇〇・明治三十三年)のあとは、たとえば満洲の牛荘の日本領事を日本政府が任命するにも、ロシアの同意が必要だったのです。日露戦争の開戦の前には、ロシアは満洲全土に戒厳令を布告しています。戒厳令下の満洲で、日露戦争は戦われたのです。言うまでもありませんが、日本が満洲に戒厳令を布くことはあり得ません。満洲は日本の領土ではないからです。日露戦争は、直接的にはロシアの朝鮮侵略にたまりかねた日本が開戦の火ぶたを切ったものですが、日本軍は満洲というロシアの領土の中で戦ったのです。
だから、小村寿太郎外相たちの戦後処理は大きな禍根を残したのです。
ポーツマスでの講和会議で、小村寿太郎日本全権はしつこく領土の割譲・賠償金を要求しますが、ロシアは峻拒します。しかし、ロシアは満洲(南満洲)を去っていくのです。買った満洲を、です(満洲買収の金額については諸説あります)。
ロシアにすれば、賠償金支払いも領土割譲も承知したという意思表示だったのです。なにせ、巨額の代金を支払って得た満洲を日本に引き渡すのですから。

露清密約により清国は日本の敵国だったのですから、当時の常識では日本には清国に対して正式に領土割譲・賠償金を請求する充分な理由があったのです。事実上において、清国はロシアに対して各種の協力・援助を与えています。清国の参戦を止めたのは日英同盟の存在でした。清国が参戦すれば、イギリスの参戦を招くことから、日露戦争は二国間の戦いの様相を呈したにすぎません。
ロシアの側には清国・ドイツ・フランスがつき、日本の側にはイギリス・アメリカがつくという国際関係の中で戦われたのが、日露戦争でした。まさに第零次世界大戦なのでした。
日本は、満洲を清国に「返却」したのです。周知の通りです。
満洲を返されて、最も驚いたのは中国人たちでした。ロシアも驚きました。英米は呆れ、そして特にアメリカはかんかんに怒りました。アメリカは、もちろん物好きから日本の「味方」をしたのではありません。
当時のアメリカの基幹産業は鉄道でした。鉄道王のハリマンがアメリカの特使として日本に出向き、首相の桂太郎との間に桂・ハリマン条約を結んだのでした。アメリカは決定的にアジア進出に遅れていました。
日本政府発行の戦費調達の国債を買ってくれたのは、英米の銀行家・産業資本家たちでした。露戦争は、アメリカの一大商機だったのです。
小村寿太郎たちは、こうしたアメリカの思いをあっさりと袖にしたのでした。その後の展開については前章までに書きました。

日本は日露戦争勝利という、大安堵のなかで、国をあげてユーフォリズム(陶酔)に陥り痴れが発生したのでしょうか。
この陶酔は、事情が知れ渡るにつれて落胆・怒りを日本中に充満させることになりました。情報戦と外交戦の完全な敗北でした。
満洲建国は、裏切られた満洲民族の怒りと、日本人の怒りが結合した側面があります。
歴史を知る中国人は、満洲事変を単に日本の侵略だったとは思ってはいますまい。彼らは日本人の「侵略反省認識」を笑っているだけです。
売り払い代金を受け取った満洲を、日本人は十万人余の青年の血を流して、取り戻してくれたのですから、「謝々」です。まさに、謝々呵々大笑です。

日露戦争は一九一七(大正六)年のロシア革命の遠因となり、皇帝一家は惨殺されました。日本人は戦慄しました。そしてコミンテルンが結成されました。コミンテルンとソ連の指導者たちは、列強諸国の干渉をなんとか凌いだのちは、包囲された状況の突破口を動乱の中国に求めました。泥沼の支那大陸に列強を咬み合わせるという戦術です。日本はまんまとこれにはまっていきました。
日露戦争の日本勝利は、清国にも革命を呼び起こしていたのでした(辛亥革命・一九一一・明治四十四年)。日本勝利に感激した多くの中国青年たちが、東京に押し寄せてきました。彼らは多くの日本の文物、例えば日本語を持ち帰国しました。
中華人民共和国といいますが、人民も共和国も日本語です。共産党も共産主義も日本語です。方程式、化学、化合……実に多くの日本語が中国語の中には含まれています。
日本人の多くはこれを知りません。中国人の多くも知りません。しかし、共産党指導者のうち知性ある人々は、これを知っています。だいたい、現代の中国語の白話文は、日本語の言文一致にならったものです。魯迅たちの努力が知られています。日本人の知る漢文が現在の中国人に通じるというのは、日本人の誤解なのです。通じません。
革命の指導者・孫文は「革命いまだならず」という言葉を残して死にました。
当時の言葉でいうと、支那大陸はまさに「動乱の大陸」と化していきました。
多くの軍閥が割拠し、支那大陸は無政府状態となっていました。破壊され尽くした自然環境と、匪賊・盗賊・軍閥の支配する世界………これが支那大陸でした。
コミンテルンは、この動乱の支那大陸に共産党勢力の扶植に努力を傾注しました。ヨーロッパ諸国の革命の可能性が消えたあとは、コミンテルンの主たる標的は日本となりました。
この当時のコミンテルンの戦術は、人民戦線戦術として知られています。それまでの共産党の活動は、共産党自身が表面に出て革命を説くスタイルだったのですが、これは犠牲が多くて日本共産党などは壊滅同然でした。一九三五(昭和十)年のコミンテルン第七回大会は画期的なこの人民戦術を採択したのでした。要して言えば「隠れろ・身を曝すな・エリートは国家権力の要路を握れ」ということです。
日本では、コミンテルン日本支部(日本共産党)のエリート部分は政府の幹部候補生として、各要路に潜伏するようになりました。共産党の主力は、潜伏したのです。日本では治安維持法は悪法の代名詞のように言われますが、治安維持法によって死刑に処せられた日本人は一人もいません。
名の高いゾルゲ・尾崎秀実事件でも、治安維持法事件ではありません。誤解が多いですから、ここで触れておきます。この重大事件については、詳しく四・五章に書いています。
私がここで言っておかねばならないのは、日本は情報戦の面ではバケツの底が抜けた状態で動乱の世界に乗り出していった、という事実です。
日本が情報戦の強者だったなら、支那事変はなかったし、「太平洋戦争」もなかったと断言できるでしょう。私は忍者映画を好みません。「ニンジャ」なる存在のなんとみじめなことでしょうか。インテリゼンスと言えば、日本人は知性とか訳しています。その意味もありますが、「謀略・情報戦」の意味を深く蔵しているのがこの言葉です。
コミンテルンの人民戦線戦術(フロント戦術)に散々やられたのは、日本だけではありませんでした。
アメリカ政府、とくにルーズベルト政権のうちのニューディーラーと呼ばれた中枢スタッフたちは多くがコミンテルンのエージェントと化していたのでした。日本に対米戦を決意させたハル・ノートを起草したハリー・ホワイトは、コミンテルンの一貝であったことが今日では確認されています。彼は戦後の冷戦激化のなかの赤狩り(マッカーシズム)のなかで摘発された後に、急死しています。一部には暗殺・自殺説などがあります。ルーズベルト大統領夫人エレノアの陰口は「ザ・レッド」でしたが、彼女も「フロント」の一員だったわけです。彼女の起草になるとされる「世界人権宣言」(一九四八年)などは、フロント文書の代表的な作品でしょう。マッカーサー司令部 のニューディーラーたちの多くが、やはりフロントの要員だったのです。日本国憲法は彼らの置き土産にほかなりません。
『続日本人が知ってはならない歴史』若狭和朋著(2007年)