第八章 アメリカ誤てりとマッカーサーは泣いた

隠された涙
長い引用を避けたいので、必要な章句だけをまず引用することにします。マッカーサーの米上院軍事・外交合同委員会聴聞委員会の証言(抄)です。前後の発言は章末の資料注を見て下さい。(1)

「………(日本が)もしこれらの原料の供給を断ち切られたら、一千万人から………失業者が日本で発生するであろうことを彼らは恐れた。したがって、彼らが、戦争に駆り立てられた動機は大部分が安全保障の必要に迫られてのことだったのだ………」
(一九五一・昭和二十六年五月三日・米上院軍事・外交合同委員会聴聞委員会証言)

有名なマッカーサーの証言ですが、彼は日本の開戦責任について「安全保障の必要に迫られてのことだった」、つまり日本の正当防衛だったと述べているのです。終戦五年を経てマッカーサーは日米開戦の秘密・機微を知るに至っていたのです。彼は次のようにも証言しています。

「太平洋でのこの百年の最大の政治的な誤りは中国において共産主義者に権力を握らせたということだと、全く個人的な見解ながら私はそう考えるのです」
(同日・ウイレー議員への回答)(2)

一九五〇(昭和二十五)年十月十五日、ウェーキ島でのトルーマン大統領との会談でもマッカーサーは「東京裁判は誤りだった」と告白しています。これも同委員会会議録に収められています。朝鮮戦争のさなかです。(3)

米戦は痛恨の誤りであったとの彼の悔悟の念が行間に溢れているのは、開戦にいたるまでの秘密・機微を知るに至った経緯を抜きには理解できません。このように解するのは、筆者だけではないでしょう。
以下、しばらくは筆者の「俳文」としてお読みいただきたいと思います。人の心事に立ち入るのは「論文」の課題ではないでしょう。述べたように、私は定年退職したもと高校教師です。学者でもなんでもありません。各種の資料を践渉・検証して「学術論文」をものにするには障害の壁が高すぎます。年齢とともに身体も多少不自由でもあります。俳文というのは次のような意味です。

「古池や………」の句の、水音は事実であったに違いないと私は信じます。蛙が飛んだのも事実だと、私は信じます。蛙も跳ばず水音もしないのに芭蕉翁はこの旬を詠んだとは、私には思えないのです。事実として、蛙が飛び水音がしました。この事実を一句にするか黙って立ち去るかは「検証」の問題とは別のことです。俳文というのは、鑑賞は恣意のままですよ、と言うにあります。事実と真実とは大いに別ですが、俳文と称するのは論文ではありません、との遁辞でもあります。さて俳文です。
意外なことを言うようですが、マッカーサーというのは哀れな敗軍の将だったのです。開戦当初、彼は極東米陸軍司令官として日本軍に降伏しました。彼と家族・側近はルーズベルト大統領の命により、マニラ湾のコレヒドール要塞から魚雷艇でミンダナオ島に脱出しています。だからマッカーサーはルーズベルトの駒になったと先ほど書きました。その後は飛行機でポートタウンに逃げますが、残されたウエインライト将軍以下十三万人の将兵は三万人の日本軍の捕虜になりました。
脱出する際の彼の言葉は広く知られています。
「アイシャルリターン(私は戻って来る)」
捕虞になった米比軍の兵士たちはマッカーサーを嘲り歌いました。
「ダグアウト・ダグ、隠れてないで出ておいで………大統領に知らせておくれ………兵隊たちは飢え死にしそうだよ………ジャップは三人………おれたちは十万………大将が逃げたから………飢え死になのさ………」

ダグアウトは穴ですが、ダグラス・マッカーサーに掛けています。彼は工兵だから俗語のダグ(工兵)にも掛けているのです。後にフィリピンに戻ってきたマッカーサーは、日本軍と激闘を強いられ、日本がポツダム宣言により降伏するまで日本軍を降伏させることはできなかったのです。サイパン島でも、硫黄島でも、沖縄でもマッカーサーは日本軍への勝利者ではありません。彼はフィリピンでまだ日本軍と戦っていたのです。
軍事評論家の中には、比島の戦いはマッカーサーの「顔(かお・めんつ)」の戦いだったと言う人は少なくはありません。ラバウルの今村大将以下の十万人余の日本軍は、アメリカ軍から無視され孤島の客にすぎなかったのです。日本軍は東京―岐阜間に相当する四百五十キロにも及ぶ地下陣地を構築して待ち構えていたのです。
マッカーサーはラバウルの攻略を主張しましたが、ルーズベルトは採用しませんでした。マーシャル参謀総長は「無益な出血は避けよ」と言いました。硫黄島やペリリュー島の激戦を思えば、ラバウル攻略戦は米軍に大出血を強いていたでしょう。マッカーサーの策を退けたミニッツの方針により、サイパン、テニアン、グアム島の日本軍は準備不足のまま勇戦むなしく玉砕したのです。ひとえに海軍の怠慢によります。サイパン玉砕後の七月二十七日、ルーズベルトはハワイに軍首脳を集め、日本攻略の最終ルートを策定しようとしました。ミニッツの海軍も統合参謀本部も、フィリピンを素通りして沖縄攻略と台湾航空の無力化を主張しましたが、ひとりマッカーサーは譲らなかったのです。フィリピンの奪還にアメリカの威信がかかっていると言うマッカーサーに、マーシャルは「アイ」ではく「ウイシャルリターン」と言うべきだと皮肉を呈しています。かくして、フィリピン戦は開始されました。フィリピン戦で日本軍は五十万人の戦死者を出していますが、背景の一端はかくなる次第です。
彼はそれでも連合国最高司令官として日本に君臨しました。そして、自分を敗北させた本間雅晴中将(彼は退役していた)と抗戦を続けた山下奉文大将を処刑したのです。
彼の命令(裁判所条例『Charter』(チャーター)により「極東軍事裁判」(東京裁判)が開始されたのですが、この「裁判」自体の批判は別の機会に譲ることにしましょう。
私がここで指摘したいのは、裁判開始を命じた当の本人・マッカーサーが米上院において、「日本が戦争に駆り立てられた動機は、大部分が安全保障の必要にせまられてのことだったのだ」(『Security』(セキュリティー)を安全保障・正当防衛とした)と述べていることです。
いわゆる自衛戦争・正当防衛戦争証言です。日本と戦った連合国軍の最高司令官が「日本の戦闘は自衛の戦いだった」と言っていることを日本人は、いや日本のメディアは語ろうとはしないのです。書いたようにウェーキ島でトルーマン大統領にも、東京裁判は誤りだったと告白しています。日本のメディアは完全に黙殺しているのです。これは章末の注に書くことにします。(4)

平成十八年は「靖国神社」問題が盛んに議論されました。中でもA級戦犯の合祀について議論が沸きました。ついには「富田メモ」なる謀略文書まで出るにおよんだのです。
謀略文書と私が断定するのは、単純なことです。一九八八(昭和六十三年四月二十八日に昭和天皇は「プレスとの会見」(原文は「pressとの会見」)を行われてはいません。この日に「プレスとの会見」を行ったのは徳川前侍従長です。主旨は四月中旬に退職した侍従長の「退職会見」です。そこには富田宮内庁長官も同席しており、メモが本物というのなら、徳川前侍従長の言葉をメモったものと解するほかないものです。昭和天皇の記者会見は四月二十九日(お誕生日)当日です。繰り返しますが、二十八日は徳川前侍従長の会見があったのみです。当時の新聞でこれらはすべて明らかです。単純な事実を指摘しているのであって、私は何かを主張しているのではありません。(5)
靖国報道にまぎれて、東京裁判理解の本筋が迷走している感じを強く受けたのは残念です。マッカーサーとは、連合国軍総司令部最高司令官であり、一九四五(昭和二十)年十二月二十五日のモスクワ会議によって、極東軍事裁判について全面的権限を付与されたところの、該裁判全体についての最高責任者が当の彼にほかなりません。被告人を指名し、判決・処刑を管理した最高責任者が「あの裁判は間違っていた」と米大統領に告白しているのです。
ついでに言えば、真珠湾の「無通告攻撃」は外交上の手落ちによる事故のようなものだったと判決文の中で認定している事実についても、日本のメディアは黙して語りません。
だから真珠湾の「騙し討ち」の責任者として処刑された戦犯は存在しません。日米の両国民は「駆し討ち」レベルの議論は克服すべきなのだと、私は拙著でも強調しました。先の章で「真珠湾の欺腑」を書きましたが、「無通告」はミスだとしても「真珠湾」は壮大なドラマです。人間の奸智、奸謀、非情、底知れぬ間抜けぶり、そして人間の気高さがすべて出揃ったドラマです。
マッカーサー証言をなぜ無視するのかということについて続けます。
これは小さなことではないのです。四年間の日米の死闘は日本側にも言い分があったと、最高司令官が証言しているのです。そして、この最裔司令官は共和党の大統領候補にも擬せられていたのです(後に彼は元副官・アイゼンハウワーにその座を奪われます)。満洲・朝鮮・中国から日本人を追い出したら、これらの国々はたちまち共産主義者の支配するところとなりました。この司令官のお膝もとで、中国は共産主義者の支配下に落ちたのです(一九四九・昭和二十四年十月)。そして、これを「百年の最大の誤り」だと上院で証言しています(先出)。
満洲は中国の一部でないことも、そして満洲建国の意味も彼は学習しました。満洲をロシアが制圧したら朝鮮半島は彼らの自由になることも、彼は賢明にも学習しました。さらには日本の朝鮮併合の意味も、すべてを朝鮮戦争に直面する中で「学習」し尽くしました。彼の学習能力の高さは、さすがウエストポイント陸軍士官学校首席卒業の経歴にふさわしいものがあります。張作採爆殺については章末に記します。(注1)
彼の学習を助けた教師のひとりは、アメリカ国務省政策企画部長として来日したジョージ・ケナンです。彼は一九四八(昭和二十三)年四月から数回来日しています。マッカーサーの占領行政について、主として民政局を占拠している「ピンカーズ(赤いやっ)」の危険性について強く菩告しています。そして、米本国でのこの種の危惧の高まりについて、レクチュアーしているのです。それからしばらくして、GHQ内部での「ピンカーズ・パージ」が始まります。
さらにマッカーサーに反省を迫った女性がいました。かの『アメリカの鏡・日本』の著者・ヘレン・ミアーズ女史です。一九〇〇(明治三十三)年生まれの彼女は戦前には二度にわたる日本滞在を経験し、著書もありました(『亥年の日本』というようですが、著者は読めないでいます)。『アメリカの鏡・日本』は一九四八(昭和二十三)年にアメリカで出版されています。彼女の三度目の来日は、一九四六(昭和二十一)年二月。GHQの委嘱により「労働政策十一人委員会」の一員として活動しながら、折から進行中の東京裁判を観察しています。
米人弁護人ウィリアム・ローガンの弁論は「東京裁判日本の弁明」(講談社学術文庫)に収められていますが、強力な論点は一九四一(昭和十六)年八月一日から実施された米英蘭による石油等の全面禁輸を「明白な戦争行為」と断定し、パリ不戦条約の提案当事者であった当時のアメリカ国務長官・ケロッグの言葉を引きながら開戦責任は日本にはないと論じた点です。これはミアーズ女史の著書の主要な問題提起と完全に一致しています。実は女史のこの著書は一九四八(昭和二十三)年にアメリカで出版されているのですが、邦訳について女史とマッカーサーは激しく論争しています。最初の邦訳が『アメリカの反省』(原百代・訳)として出るには、講和発効後の一九五三(昭和二十八)年を待たねばならなかったのです。マッカーサーは女史の著書を読み、書簡の交換を通じてある種の認識を得ていったようです。これは『アメリカの鏡・日本』のまえがきに詳しく説明されています。
そして最大の教師は一九五〇(昭和二十五)年六月、朝鮮半島に現れました。朝鮮戦争の勃発です。朝鮮半島が大陸の大勢力に制圧されたら日本の防衛はたちまち危機に陥ることを知った彼は、満洲爆撃等を主張し、そして解任されました。
ついでに言いますが、朝鮮併合当時の朝鮮開化の志士たちの苦渋の決断も、彼は理解したようです。これが今日の韓国の存在の基礎になっています。
日清戦争の日本勝利の後、朝鮮は大韓帝国として独立しましたが、たちまちロシアの支配下におかれました。日露戦争の日本勝利は、支那(清)朝鮮の開化を願う志士を鼓舞しました。日本、そして米英と連帯するしかないと覚悟した朝鮮の志士たちは、日本と韓国の併合を決議したのです。(6)
今では彼らは「親日派」と糾弾されていますが、今の韓国人には彼ら志士たちの号泣が聞こえないのでしょうか。孫文たち中国の志士たちも大挙して日本に留学し、大いに「親日派」だったのです。周恩来・魯迅みな親日派です。中華人民共和国といいますが人民も共和国も日本語であることを両国民は知りません。共産主義、共産党、社会主義、微分、積分、分子、原子みんな彼らの持ち帰った日本語なのです。日本人の多くは漢詩は中国人に通じると誤解しています。中国人に読んでもらうことです。おそらく中国人の殆どの人には通じないでしょう。今の中国語なる「白話文」は、日本語がモデルなのです。魯迅や周作人たちの血のにじむような必死の努力によって「言文一致」の日本語改良て編み出されていったものなのです。
『続日本人が知ってはならない歴史』若狭和朋著(2007年)

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