日露戦争の敗色がロシアに兆し始めた時期に、パクーの油田で大ストライキが発生しました。明石元二郎やレーニンの同志たちの姿がありました。このストライキに続き、プチーロフ工場のストライキ、血の日曜日事件、戦艦ポチョムキンの反乱、怪僧ラスプーチンの暗殺、ゼネストの広がりと、ロシア国内の混乱は政治危機の様相を呈してきました。一九〇五(明治三十八)年の第一次ロシア革命の混乱の中で、ポーツマス講和条約は成立したのでした。
権力奪取に失敗したレーニンやトロツキーたちは、ロシアを追われてどこで何をしていたのでしょうか。レーニンはスイスを中心に欧州中を駆け回り、トロツキーはニューヨークを拠点に革命組織の強化に努めていました。徒手空拳で空き腹をかかえて飢えていたのではありません。ユダヤ世界からの後援者にはこと欠きませんでした。
一九一七(大正六)年三月、トロツキーは二百七十五名の同志と共にクリスチャイナ号でロシアに向かってニューヨーク港を発ちますが、次の港でカナダ政府の手により逮捕されました。この時にトロツキーたちの釈放を要求した人物の名をあげておきましょう。
イギリスはワイズマン卿を代表に、アメリカはハウス大佐を代表にして、カナダ政府と交渉しました。カナダ政府はロシア政府の意向もあるから簡単には釈放しないと思われていたのに、簡単に釈放しました。
ワイズマン卿という人物は、第一次大戦に アメリカを参戦させるためにイギリスが送り込んだ人物です。いわばイギリスの国運を背負った人物でした。カナダ政府も当然に、この間の事情は承知しています。イギリスで最大の財閥・ロスチャイルド家とも姻戚関係を重ねた人物です。
ハウス大佐というのは軍人ではありません。大佐・カラネル(連隊長)という呼び方はアメリカ人に好まれる呼称です。ハウスは当時の米大統領ウイルソンの「片腕」と目されて、大戦中は欧州ではウイルソン代理としての接遇を受けていた人物であり、イギリスの金融・産業会とも関係の深い人物でした。
ハウス「大佐」は軍の階級とは無関係ですが、アメリカではカラネルは相当な敬称であり愛称です。アメリカ大統領の「片腕」が「大佐」と呼ばれていたのです。テキサスの石油資本と欧州の金融資本との仲介を果たす人物でもありました。
そのような彼は一九〇二(明治三十五)年には、かのクーン・ローブ商会の役員社員になっています。この商会は一八六八(明治元)年にクーンとローブの義兄弟が結成したものですが、当時のアメリカでは基幹産業とも呼ぶべき鉄道債権を扱うことにより巨利を得て、特にユニオン・パシフィック鉄道の支配権をめぐっては、モルガン商会との激烈な戦いが歴史に名を止めています。このクーン・ローブ商会とシフ・カンパニー社が合併するにいたるのですが、この時シフに提供された資本はロスチャイルド家のものだったと言われています。この間の事情は極めて複雑であり、行論とずれるので詳細は略します。
日本人の弱点は、国際的な視点から歴史を見ないことだと言われます。私もこれには、同意します。そして、付言したい。
国際的な視点というのは、ユダヤ人の視点に学ぶことです。アメリカやイギリスは国家を代表する人物を、なぜトロツキー釈放の交渉に当たらせたのでしょうか。それはユダヤ社会はワンワールドのグローバリズムに立脚しているからです。これは逆に言うべきかもしれません。ユダヤ人というのは人種でもなければ民族でもないのです。ワンワールド社会がユダヤ人社会なのです。ユダヤ人たちの中で祖国(ナショナルホーム)を希求する一派をシオニストといいます。イスラエルはユダヤ人の「国」には違いありませんが、ユダヤ人の「祖国」ではありません。ユダヤ人のレーニンはシオニストではなく、逆に強烈な反シオニストでした。
ユダヤ人弾圧事件として有名なドレフュス事件に際して、テオドル・ヘルツル博士たちが提唱したユダヤ人のナショナルホーム建国運動(シオンの丘、つまりパレスチナに帰ろうという運動)をシオニズムと呼んでいます。しかし、これはワンワールドのユダヤ人の思想とは別です。レーニンやトロツキーたちはロシアの同胞を解放しようとしていたのです。トロツキーたちの釈放に英米を代表する人物たちが加担したのは、イギリスの首相ロイド・ジョージとアメリカ大統領ウッドロー・ウイルソンの意向を受けてのことでした。あのジェイコブ・シフはトロツキーを通じて、当時の金で二千万ドルを超える巨費を支援しています。彼らはみなユダヤ人なのです。
私が明らかにしておきたいことは次の事実です。日露戦争で日本人支援に回ったユダヤ人社会の目的と、ロシア革命においてレーニンやトロツキー支援の目的は同じだということです。
ロシアとシベリア、そして満洲を貫通する鉄道の経営を通じてユダヤ人の自由な世界を築きたいという事業意欲を、小村寿太郎外相たちは理解しませんでした。伊藤博文は理解していた痕跡があります。だから伊藤博文は死んだのだと、私は「俳文」ながら書いておきたい。満洲に英米を入れろと、最晩年の伊藤博文は繰り返しています。
伊藤博文を嫌う、つまりは日英米が満洲を拠点に入ってくることを嫌悪する勢力がロシア帝国に頑強だったことは言うまでもありません。だから伊藤はハルピンで死んだと私は考えています。
『続日本人が知ってはならない歴史』若狭和朋著(2007年)