国があり、家があり、自分がある「修身」という言葉が普及したのは、徳川時代に儒学が普及し、四書(『』論語』『孟子』『大学』『中庸』)が各地の藩校などで読まれ、その中でも『大学』の中の教訓を『修身・斉家・治国・平天下』(しゅうしん・せいか・ちこく・へいてんか)

という言葉に要約したものが、主として武士階級の人々に記憶されるようになったからである。

この『大学』の言葉は支配階級の人たちの心がけの順序として教えられたのであった。天下を治めようとするなら、まず自分の国(領地)をよく治めなさい。自分の国を治めるには、まず自分の家をよく平和に保つように斉えなさい。自分の家を斉えるには、まず自分自身が修養して立派な人格を作らなければなりませんということである。これは朱子学のエッセンスとして受け取られた。

中江藤樹(一六〇八~四八)は十一歳の時、初めて『大学』を読み、「天子ヨリ庶人二至ルマデ―ニコレミナ修身(身ヲ修ムル)ヲモッテ本トナス」というところに至るや、深く感嘆して涙を流したという。それは徳川家康が亡くなって二、三年後の話である。当時、庶民も天子も、人間としての基礎になるのは同じこと、つまり修身なのだと感奮したのである。そして彼自身は近江聖人といわれる人物になったのだった。

また荻生狙棟(一六六六~一七二八)は少年のころ、南房総に父と共に流落しており、学問の師となる人もいなかったが、たまたま父(将軍綱吉の侍医だったが流罪)の持ち物の中に『大学諺解(だいがくげんかい)』があった。

諺解というのは和文の注釈である。彼はこの本一冊を十二年間読み続け、そのため後に江戸に戻ってみると、他の漢籍を注釈なしに読めるようになっていたという。こうした逸話が伝えられるほど、『大学』は普及しており、その「経一章」に述べてある修身の大切さを学んだのであった。

『国民の修身』渡部昇一(産経新聞出版)