明治四十三年四月十五日、第六潜水艇は潜航の演習をするために山口縣新湊沖に出ました。午前十時、演習を始めると、間もなく艇に故障が出來て海水が浸入し、それがため艇はたちまち海底に沈みました。この時艇長佐久間勉は少しも騒がず、部下に命じて應急の手段を取らせ、出來るかぎり力を盡しましたが、艇はどうしても浮揚(うきあが)りません。その上悪ガスがこもつて、呼吸が困難になり、どうするこども出來ないやうになったので、艇長はもうこれまでど最後の決心をしました。そこで、海面から水をとほして司令塔の小さな覗孔にはいつて來るかすかな光をたよりに鉛筆で手帳に遺言を書きつけました。
逍書には第一に艇を沈め部下を死なせた罪を謝し、乗員一同死ぬまでよく職務を守つたことを述べ、又この異變のために潜水艇の發逹の勢を挫くやうな事があってはならぬと、特に沈没の原因や沈んでからの様子をくはしく記してあります。次に部下の遺族が困らぬやうにして下さいと願ひ、上官・先輩・恩師の名を書連ねて告別の意を表し、最後に十二時四十分と書いてあります。
艇の引揚げられた時には、艇長以下十四人の乗員が最後まで各受持の仕事につとめた様子がまだあり/\と見えてゐました。遺書はその時艇長の上衣の中 から出たのです。
格言 人事ヲ盡シテ天命ヲ待ツ
『国民の修身』監修 渡辺昇一