鷹山は人民の難儀を救うために、倹約を勧めた上に、なお産業を興して領内を富まそうとはかりました。荒地を開いて農業を営もうとする者には農具料・種籾などを与え、三年の間、租税を免じました。また命令を出して村々に馬を飼わせたり、馬の市場を開かせたりなどして農業を盛んにする助けとしました。

鷹山はまた養蚕を勧めました。領内には、貪しくて桑を植えることの出来ない者が多かったので、自分の衣食の費用の中から、年々五十両ずつを出して、桑の苗木を買い上げて分けてやり、または桑を植える者に貸し付けてやって、その業を励ましました。

なお鷹山は奥向で蚕を飼わせ、その糸で絹や紬を織らせました。また領内の女子に職業を授けるために、越後から機織りの上手な者を雇い入れて、その方法を教えさせました。これが世に名高い米沢織のはじめであります。

 

なせばなるなさねばならぬ何事も

ならぬは人の なさぬなりけり

 

(五年生)