上杉鷹山は十歳の時に、秋月家から上杉家へ養子に來て、十七歳で 米澤藩主となり、よい政治をして評判の高かった人であります。

鷹山が藩主となった頃は、上杉家には借財が大そう多く、其の上、領内には不作がつゞいて、人民も難儀をしてゐました。鷹山は此のまにしておいてはならない、と思ひ、倹約をもととして家を立直し、人民の難儀を救はうと決心して、まづ江戸にゐる藩士に其の志を告げました。しかし、藩士の中には鷹山に従はないで、「殿様は小藩にお育らになったから、大藩のふりあひを御存じない」などと言ふ者がありました。鷹山は少しも志を動かさず、領内に倹約の命令を出し、まづ自分のくらしむきをずつとつゞめて、大名でありながら食事は一汁一菜、着物は木綿ものばかりときめて、實行の手本を示しました。鷹山の側役の者の父が、或日、在方に行って知合の人の家に泊ったことがありました。其の人がふろにはいらうとして着物をぬいだ時、粗末な木綿の襦袢だけは、ていねいに屏風にかけて置きました。主人はふしぎに思ってたづねますと「この襦袢は殿様がお召しになつてゐたもので、それを倅がいたゞいて歸つたのを、私がもらったのです」と答へました。主人はそれを聞いて、大そう鷹山の倹約に感心し其の襦袢を家内の人たちにも見せて、いましめました。

(五年生)

 

※上杉鷹山…寛延四(一七五一)年~文政五(一八二二)年。上杉治憲とも呼ばれた。出羽国米沢藩の第九代藩主。江戸時代屈指の名君として知られる。米沢藩は現在の山形県東南部。「国民の修身」一三一頁参照

※秋月家:日向国高鍋藩主。高鍋藩は現在の宮崎県東部

※在方:いなか

『国民の修身』監修 渡辺昇一