「戦時色」が本当に強まったのは、開戦から三年近くが経過した昭和19年7月のサイパン島陥落以降である。その後、本土空襲が本格化したのだから、これは当然であり、「戦時色」というよりも、本土防衛のためにそうせざるを得なかったというのが事実であろう。学校教育も必然的に「軍国主義的」になっていき、勉強どころではなくなっていた。ただ、この時代を仮に「暗黒の時代」と呼ぶ人がいたとしても、実際にはわずか一年ほどの特別の期間であり、長い日本の歴史の中でほんの一瞬に過ぎないのである。
にもかかわらず、戦前の日本は、すべて否定され、ましてやその当時の教育を評価することなどあってはならないというのが戦後日本が歩んできた道である。なぜ、そのようなことになったのかは後述するが、例えば本書には諸外国との付き合い方について述べた次のようなくだりが登場する。
我らも国交の大切なこどを忘れず、ととめて外国の事情を知り、外国人と交際するに当たっては、常に彼我の和親を増すように心掛けましょう。
我が国 第十課 国交(現代語訳)
国旗はその国の印でございますから、我ら日本人は日の丸の旗を大切にしなければなりません。また礼儀を知る国民としては外国の国旗も相当に敬わなければなりません。
我が国 第四課 国旗(現代語訳)
外国人に対して礼儀に気をつけ、親切にするのは、文明国の人の美風です。
公民の務 第一課 礼儀(現代語訳)
「好戦的」というよりも平和的であり、むしろ奥ゆかしさすら感じさせる。当時、東洋の小国が生き残るためには、欧米列強の植民地にされないことが第一であり、そのためには、自らも列強に追いつくしかなかった。だからこそ国は一つにまとまらねばならず、外国に対しては出来る限り敬意を払い、無用な争いをしてはならなかった。そんな教科書を作り、学んできた日本人が突然、アジア各地を侵略し、理由もなく米英に戦争を仕掛け、傍若無人の限りを尽くしたというのだろうか。
「国民の修身」渡部昇一