ところで、「空」にはもうひとつ考えるべき問題がある。「空」の原語は「シューニャーター」であるが、これは、インドの数学では「零」を意味することばである。「空」は「零」ということになる。「零」を発見したのはインド人であり、それによって世界の数学が飛躍的に発展したのは有名な事実であるが、数学の「零」を追求していくことによって、仏教の「空」が解明されるという方向もたしかにあると思う。
ところが、数学者岡潔先生の言うところによれば、数学においては「一」が大切だということである。自然数の「一」は証明できないものだそうである。その「一」がわかると、数学の根本的問題がいろいろとわかってくるのだそうである。「零」と「一」とどちらが大切であるかという問題について岡先生の意見をうかがうことができなかったのが残念であるが、仏教の人生観においても、「零と一」、すなわち、「空と一」という関係を明確にすることが大切な問題だと思っている。
わたしは、この「一」は仏教においては「師」だと考えている。師のない仏法というものはない。仏法は必ず師から弟子へと伝えられてきたのであり、師を持たぬ仏法というものはありえない。亀井勝一郎氏が壮年のころ、真宗の学匠暁烏敏師を訪(と)うたことがある。談論風発していよいよ帰るというとき、それまで黙ってフンフンと話を聞いていた暁烏師が突然、「亀井さん、あんたの師匠はだれかね」と鋭く問われたそうである。亀井氏はそのときひとことも答えられず、「これがわたしの生涯の課題となった」と言われているが、まことに、師のない仏法というものはない。この書を読まれるかたがたにわたしは特に申したい。この書を読んで「般若心経」を卒業し、仏教がわかったなどと夢にも思ってくださるな、と。仏法(わたしは仏教と言わず、仏法と言いたいのであるが)は、片々たる書物によってとらえられるような、そんな単純なものではけっしてない。で師を持ち、信心決定してはじめて知られるものなのである。
そういう意味で、「一」は大切である。しかし、その「一」は、どこで「空」に結びつくのであるか。「一」は「空」の中ではじめて生きてくるものではあるまいか。そうすると、師に会うということもまた、仏のいのちの中においてであり、仏のはからいにおいてであるということになる。
ユダヤ教の学者マルチン・ブーバーが、 名著「われと汝」の中で、「まことに出会いは、ひとえに恩寵のたまものである」と言ったのを思い出さずにはいられないのである。
「般若心経」の「空」の思想は、大乗仏教の考え方の基本である。この思想をきちんと身につけておかないと、「法華経」や「華厳経」の壮大華麗な宇宙生命の世界にはいっていくことはできぬであろう。また、「禅」の持っている、論理を超えた論理とでもいうべき世界にはいっていくことはできぬであろう。
この「空」の思想がよくわかっていないと、日本の伝統的な芸術である「茶道」も、「花道」も、「能」も、いっさいの文学も、わからなくなるであろう。それだけではない、今日の日本人が、自分では気がつかないでそれに動かされている日本人の精神的特質さえもわからなくなってしまうであろう。
高神師の講義は丹念をきわめている。般若心経に関する講義としては今日なお、これを超える著書を見ないのは偉とするに足りるであろう。時として難解な部分があっても、とばさず、はずさず、丹念に読み進んでいかれることをせつに希望してやまない。
高神覚昇「般若心経講義」 解説 紀野一義(角川ソフィア文庫)
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