この「般若心経」は簡潔で、しかも、人生を深いところでとらえているので、中国に渡来してから多くの中国人の心をとらえた。そのため、実にしばしば漢訳された。今日残っているのは七種類であるが、実はもっとたくさん漢訳されていたようである。一番古いものはクマーラジーヴァ(鳩摩羅什)が漢訳したもので、四一二年から四十三年にかけて漢訳されたらしい。その次に古いのが「西遊記」のモデルにされた唐の玄奘の漢訳で、これは六四九年に訳出されている。中国や日本でもっとも多く読誦されたのがこの訳本である。漢訳、ことに玄奘の訳はたいへん名訳であり、原文を離れて独立に存在理由があるほどすぐれたものであるが、やはり、梵文と対照しながら読んでいくことが大切だと思うので、高神師の名講義を読み終えられたら、ぜひ原文から直接訳された文章にあたってみられることをおすすめしたい。漢訳にない良さがサンスクリットの原文にあるかと思えば、サンスクリットの原文にはそれほど深い意味がこめられていないのに、玄芙の漢訳には深い意味や余韻がこめられている部分もあったりして、漢字の持つ特殊な味わいに驚かれることであろう。ただし、サンスクリットの原文からの直接の訳文を読まれるときは、詳細な註のついているものを選ばれるとよい。それでないと、原意を読み誤って勝手な解釈をしてしまう危険があるからである。
「般若心経」がなぜ「心経」というのか、その理由についても少ししるしておきたい。「心」の原語「フリダヤ」は「心臓」の意味であって「こころ」ではない。そして、ここでは、「精髄」「精要」の意味でこのことばが使われている。心臓を尊ぶ思想は、仏陀以前のウパニシャッド(古代インド哲学書)にまでさかのぼることができる。ウパニシャッドでは、心臓はアートマン(我。俗にいう魂のごときもの)の宿る場所であると説かれ、さらに、フリダヤは「心」であると説かれ、ブラフマン(大我。宇宙的生命とでもいうべきもの)であると説かれている。
そこでは、巨大なプラフマンが人間の心臓の中にあるアートマンと同質であり、同一であると考えられている。「般若心経」は明らかにこの思想を受けて、ブラフマンに相当する「空」(シューニヤター)の世界が、人間の心臓にも比すべきこの短い経典の中に全的に表現されている、納められているという意味で「心経」という表現をしたのである。
「般若経」の思想の根本は「空」(シューニヤター)を説くことである。「空」の思想は仏陀時代にもなかったわけではない。現に「小空経」「大空経」という、空を説く経典が現存しているほどである。しかし、「空」の思想が仏教の根本思想として説かれるようになったのは「般若経」が出現してからである。そして、この「空」の思想が、それ以後の大乗仏教のものの考え方の基本となったのである。
「般若心経」はこれを「色即是空、空即是色」と表現した。そのことについては後にふれることにして、ここではまず、「空」の思想にどう取りついていったらよいかということを考えてみたいと思う。
高神覚昇「般若心経講義」 解説 紀野一義(角川ソフィア文庫)