仏陀は紀元前三八三年に亡くなった。仏陀が生きていられたころの仏教は「原始仏教」と呼ばれている。それが、仏陀の死後は「部派仏教」と呼ばれるようになる。なぜなら、仏陀の死後、仏教教団は二十いくつかの部派に分裂したからである。
分裂した理由には必然的なものはなにもない。進歩的、保守的という相違、地域の相違、種族の相違、あるいは経典に対する解釈の相違などから分裂したのである。そこには、宗教精神の衰弱が見られる。要するに、仏教教団は堕落したのである。燃えるような宗教生命がなくなったのである。そのかわりに、経典の学問的研究が盛んになり、経典に関する註釈書がおびただしく作られるようになった。
この傾向に反発して、仏陀にかえれ、という旗印の下に結束したのが在家の信者たちであった。かれらは、アショーカ王(阿育王)が全インドに建設したおびただしい仏塔を中心に団結し、仏陀時代の生き生きとした宗教生命をとりもどそうと努力したのである。かれらは、自分たちの集団を「菩薩団」と呼んだ。ポーディ・サットヴァ(菩薩)という呼び名は、原始仏教時代には、仏陀の前生のときの呼び名であった。それをかれらは大胆にも、自分たち全員の共通の呼び名にしたのである。紀元前後ごろから、この菩薩団は独自の経典を作り出した。原始仏教の思想を中核にし、巨視的、宇宙的なひろがりを持ち、文学的香気の高い経典を作り出したのである。これが、「般若経」「法華経」「華厳経」「維摩経」などと呼ばれる大乗仏教の経典である。
このうち、「般若経」はもっとも早く成立した経典だといわれている。漢訳された「大般若経」は実に六百巻という膨大な内容を持つものであった。
こんな膨大な分量の経典では、説くことも、読誦することも容易なことでない。そこで、この膨大な般若の世界を、もっとも簡潔に、的確に表現する経典として「般若心経」が作られたのである。
この、サンスクリット(梵語)で書かれた「般若心経」の原本は、今どこに残っているかというと、インドにもなく、中国や東南アジアにもなく、実に、わが日本の法隆寺に写本が残っているのみである。この写本は西暦六〇九年(推古天皇十七年)に中国から伝来したものだといわれるが、世界の仏教学者はこの法隆寺本によって「般若心経」の正確な原文を知ることができたわけであり、「般若心経」が日本人にとってたいへん因縁の深い経典であることが、このことからも知られるのである。
高神覚昇「般若心経講義」 解説 紀野一義(角川ソフィア文庫)