よく考えるか、悪く考えるか、シッカリよく考えるか、よい加減に考えるか、はともなく、人間である以上、それはなにか、それはどういうわけで、それはどうして、などと考えることはむしろ当然です。ではいったいこの般若の四句の呪文は、どんな意味をもった言葉かと申しまするに、最前も申し上げたごとく、これは梵語の音をそのまま写したものです。原語でいうと

「ガテイ、ガテイ、バーラガテイ、パーラサンガテイ、ボージ、スバーハー」

というのです。ところでいま、かりにそれをしいて翻訳してみると、最初の「羯諦」とはつまり「往くことに於いて」という意味です。だから、「掲諦、掲諦」と重ねていえば、それは

「往くことにおいて、往くことにおいて」

という意味 です。ではいったい、「どこへ行くか」というと、そのつぎの「波羅羯諦」という語がそれを表わし ています。すなわち、

「向こうへ往く」

ことなのです。ところで、「向こうへ往く」ということは、どんな意味かというと、それは、彼岸の世界へ行くことなのです。迷いの此岸から、悟りの彼岸へ行くことです。つまり、凡夫の世界から、仏の世界へ行くことなのです。弘法大師はこれを「行行として円寂に入る」と訳しています。次に「波羅僧羯諦」というのは、「波羅」は向こうという意味、「僧掲諦」とは到達する、結びつく、いっしょになる、というような意味です。したがって「波羅僧掲諦」ということは、凡夫が仏の世界へ到達して、仏といっしょになるということです。次に「菩提薩婆訽」という事ですが、菩提は菩提すなわち悟りのことです。「薩婆訽」は、速疾とか、成就とか、満足というような意味で、どの真言の終わりにも、たいていついている語です。
以上ひと通り、この真言の意味を解釈しましたが、要するに『心経』の最後にある、この「掲諦掲諦」の四句の真言は、こういう風に解釈すればよいかと思います。

「自分も悟りの彼岸へ行った。人もまた悟りの彼岸へ行かしめた。普く一切の人々をみな行かしめ終わった。 かくてわが覚の道は成就された」

すなわち一言にしてこれをいえば、「自覚、覚他、覚行円満」ということです。すなわち

「自ら覚り、他を覚らしめ、覚りの行が完成した」

ということで、それはつまり仏道の完成であります。しかもその仏道の完成こそ、まさしく人間道の完成であります。したがってこの四句の呪文は、単に『心経』一部の骨目、神髄であるのみならず、実に、八万四千の法門、五千七百余巻の、一切の経典の真髄であり、本質であるわけです。換言すれば、大小、顕密、聖道浄土、仏教の一切の宗旨の教義、信条は、皆ことごとくこの四句の真言の中に含まれているのです。
で、つまり、この真言の意味をば、いろいろの角度から、いろいろの立場から、機に応じ、時に臨みて、これを説き示したのが、今日の日本の仏教、すなわち十三宗五十八派の建前であるわけです。というのは、いうまでもなく大乗仏教の精神は、われらと衆生と皆共に仏道を成ぜんということです。同じく菩提心を発して浄土ヘ往生することです。したがって、それは決して自己独りか往生ではないのです。あくまで皆共にです。同じく菩提心を発すことです。私どもは、この真言の意味を理解することによって、はじめていっそう明瞭に『心経』が、どんな貴い経典であるか、いや、大乗仏教の眼目はどこにあるかを、ハッキリ知ることができるのです。あの弘法大師が、

「真言は不思議なり。観誦すれば無明を除く。一字に千理を含み、即身に法如を証す」

といわれたのはそれです。般若の真言こそ、まことに不思議です。これを誦えただけでも無明の煩悩をとり除いて、悟りを開くことができるのです。

「即身に法如を証す」

とは、そのままにすみやかに、成仏するという意味です。ただし、漢訳のお経は、これでおしまいになっておりますが、梵語の原典にはこの真言の次に、

「イテイ、プラジュニャー、パーラミクー、フリダヤム、サマープタム」

という語があります。ところで、これを翻訳すると、こういう意味になるのです。

「といいて、般若波羅蜜多心経を説き終われり」

というのです。しかしこの語はあってもなくても、同じことですから、玄奘三蔵は、わざとこれを省略せられて、ただ最後に「般若心経」という語だけを、つけ加えられたのであります。
以上はなはだ拙い講義ではありましたが、十二講にわたってだいたい一通り、「心経とはどんなお経か」「心経にはどんなことが書いてあるか」「経はなにゆえ、天下一の経典であるか」というようなことを、ざっとお話ししたわけですが、最も深遠なこのお経を、私ごとき浅学菲才の者が講義するのですから、とうてい皆さまの御満足を得ることができなかったことは、私自身も十分に承知しておりますし、また貴いこの『心経』の価値を、あるいはかえって冒漬したのではないかとも怖れている次第であります。
古来、仏教では

「法を猥(みだ)りに冒したものは、その罪、死に値す」

とまで誡めておりますが、この意味において、私もおそらく、死に値する一人でありましょう。地獄へ落ちてゆく衆生の一人でありましょう。しかし、私はそれで満足です。
高神覚昇「般若心経講義」(角川ソフィア文庫)