ところで、この般若の真言について想い起こすことは、今から1189年の昔、すなわ天平宝字二年の八月に下し賜わった淳仁天皇の詔勅であります。その勅語の中にこう仰せられております。
「摩訶般若波羅蜜多は、諸仏の母なり。四句の偈等を受持し、読誦すれば、福寿を得ること思量すべからず。之を以て、天子念ずれば、兵革、災難、国裡に入らず。庶人念ずれば、疾疫、癘気(れいき)、家中に入らず。惑を断ち、祥が獲ること、之に過ぎたるはなし。宜しく、天下諸国につげ、男女老少を論ずることなく、口に閑かに、般若波羅蜜多を念誦すべし」
というのであります。これは「続日本紀」の第二十一巻に出ておる詔勅ですが、要するに、勅語の御趣旨は、上は、天皇から、下は国民一般に至るまで、大にしては、天下国家のため、小にしては、一身一家のために、「心経」一巻を読誦する暇(いとま)なくば、せめてこの般若波羅蜜多の「呪文」を唱えよ、という思し召しであります。さてただ今も申し上げた通り、いったい「呪」とか「真言」とか「陀羅尼」などというものは、いわゆる「一字に千理を含む」で、たった一字の中にさえ、実に無呈無辺の深い意味が含まれているのですから、古来より梵語を強いて翻訳せずして、陀羅尼は、陀羅尼のままに、真言は、真言のままに、呪は、呪のままによみ伝えてきたのです。すなわち陀羅尼にしても、呪にしても、真言にしても、それは神聖にして犯すべからざる仏の言葉であるのと、それにはきわめて深遠な意味が含まれているという所から、梵語の音を、そのままにこれを漢字に写すだけで、わざと翻訳しなかったわけです。したがって昔から、一般にこの般若の四句の呪文は、何がなしに、ありがたい功徳があるというので、そのまま翻訳せずに、信じ且つ誦えていたのです。しかし人間というものは妙なもので、いえないものを、いってみよ、というのが人間の癖です。とかく、見るな、というものほど、見たいものです。聞くな、といわれるほど、よけいに聞きたいものです。いや、するなといえば、よけいにやってみたいのが人情です。で、般若の真言も、そのわけは知らなくてもよい、ただそのまま唱えていれば功徳があるのだ、利益があるのだ、といった所でなかなか人間は承知しないのです。
「いったいそれはどういう意味なのだ」
「わけがわからないものを、むやみにありがたいといって、誦えることはできないではないか」
というのです。むろん、それはまことに、一応無理もない話です。いったい人間は 考える動物」です。ギリシア語のアントローボスにしたところで、梵語のマヌシャにしたところで、それはいずれも人間という事ですが、その意味は「考えるもの」ということです。思い、考えるものが人間です。
この意味において、あのパスカルが「人間は考える蘆」だといったことばは、非常に面白い、いや、趣があると存じます。全く人間は、あの水際に生えている蓋のように弱いものです。肉体はわずか一滴の水、一発の弾丸にでも、容易に斃れる、きわめてか弱いものです。しかしたとい、全世界が武装してかかっても、人間の中から「考える」という心を奪う事はできないのです。「人間は考える蘆」とは味わうべき、意味ふかい語であります。
高神覚昇「般若心経講義」(角川ソフィア文庫)