ところで簡単な十七字の詩でさえ、翻訳が不可能だとすると、経典の翻訳などのむずかしいことは、今さら申すまでもありません。したがって梵語(サンスクリット)の聖典を漢訳する場合などは、ずいぶん骨が折れたに相違ありません。昔から、中国の仏教は、翻訳仏教だとまでいわれるくらいですが、しかし、中国でスッカリ梵語聖典を翻訳しておいてくれたればこそ、私どもは今日、比較的容易に、聖典を読誦し、理解することができるのです。だがまだまだ漢訳でも不十分でありますから、私どもはどうしても、ほんとうの日本訳の聖典を作らねばならぬと存じまして、私などもいろいろそれについて苦心しているわけですが、それにつけても私どもは、経典翻訳者の甚深なる苦心と労力に対して、満腔の感謝の意を表さねばならぬと思います。いずれにしても翻訳ということはずいぶん困難な事業でありますが、それについて想い起こすことは、かの「五種不翻」ということであります。これは有名な、かの玄奘三蔵が唱えた説でありますが、要するにこれは、どうしても華語すなわち中国の言葉に訳されない梵語が、五種あるというのです。したがってそれは原語の音をそのまま写すだけに止めておいたわけです。たとえば、インドにあって中国にないものとか、―つの語に多くの意味が含まれているものとか、秘密のものとか、昔からの習慣に随うものとか、訳せぱ原語の持つ価値を失う、といったようなわけで、これらの五種のものは、訳さずに漢字で、原語の音標を、そのまま写したわけです。さてこれから申し上げるところの、「般若の呪文」も、「秘密」という理由で、あえて玄笑三蔵は翻訳せずに、そのまま梵語の音だけを写したわけです。だから、どれだけ漢字の意味を調べても、それだけではとうてい、「呪」の意味は、本当に理解されないわけです。
高神覚昇「般若心経講義」(角川ソフィア文庫)
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