と川柳子も諷刺しておりますが、いたずらに私どもは、自力だ、他力だ、などという「宗論」の諍(あらそ)いに、貴重な時間を浪費せずして、どこまでも自分に縁のある教えによって、その教えのままに、真剣に、その教えを実践すべきだと思います。目ざす理想の天地は、結局般若の世界です。
般若への道には、むろんいろいろありますが、目的地は結局一つです。「般若は三世の諸仏を産み、三世の諸仏は般若を説く」と、古人はいっておりますが、「仏に成る」という仏教の理想は、つまり般若の世界に到達することです。ところで、この『心経』の本文には、「是れ大神呪、是れ大明呪、是れ無上呪、是れ無等等呪」といって、四種の「呪」が挙げてありますが、要するに、これは般若波羅蜜多は、最も優れた仏の真言だ、ということをいったものです。つまりこの般若波羅蜜多が、そのまま陀羅尼なのです。 釦翫なのです。真言なのです。で、この般若の功徳を四通りに説明し、讃嘆したのが、ここにあるこの四種の呪です。さてまず第一に、「是れ大神呪なり」とは、神とは霊妙不可思議という意味ですから、これ大神呪なりということは、われら人間の浅薄な知識では、容易に測り知ることのできぬ、霊妙不可思議なる仏のことばだということです。次に「是れ大明呪なり」とは、明とは、光明の明ですから、この般若の真言こそ永遠に光り輝く、仏の神聖なることばだということです。次に「是れ無上呪なり」とは、この上もない最上の瞬匁だということです。次に「是れ無等等呪なり」とは、とうてい何物にも比較することのできない、勝れた呪文だということです。
要するに、この四種の「呪」は、般若波羅蜜多は、この世において、最も勝れたる、何物にも比較することのできない、不可思議なる功徳をも、所の真言であって、この中には一切の仏の説かれた教えが、ことごとく含まれている、ということをいったものであります。ところで弘法大師はこの呪文をば、声聞と縁覚と菩薩と仏の真言として四通りに配釈しておりますが、声聞と縁覚とは小乗、菩薩と仏とは大乗(第一講を見よ)でありますから、結局大小乗一切の仏教は、ことごとくこの「般若波羅蜜多」という一つの呪に摂まってしまうわけです。
ゆえに今日わが国には、十三宗、五十数派、いろいろの宗旨や宗派もありますが、それがいずれも仏教である以上、つまりいろいろの角度からいろいろの方面から、この「般若の呪」を説明し、解説したものということができるのであります。したがって、われらにして、もしもほんとうに観自在菩薩のように、般若の智慧を磨いて、如実にこれを実践し、実行するならば、自己の苦しみはいうまでもなく、他人の一切の苦しみをも、よく除きうるのでありまして、それを『心経』に、「能く一切の苦を除く、真実にして虚しからず」といってあるのです。全く真実不虚(ふこ)です。嘘だといって疑う方が悪いのです。真理だ、ほんとうに疑うべからざる真理だとして、ただ信じ、これを実行すればよいのです。けだし「般若波羅蜜多」という事は、屡次(るじ)申し上げたごとく、彼岸へ渡るべき智慧の意味であり、同時にそれは迷いのこの岸から、悟りの彼岸へ渡った、仏のもっている智慧であります。しかもその智慧は、一切は因縁だと覚る所の智慧ですから、結局、因縁という二字を知るのが、この般若の智慧です。かつて、釈迦は「因縁」の真理に目醒めることによって、覚れる仏陀になったのです。したがって、私どももまた、この因縁の真理をほんとうに知ることによって、何人も仏になりうるのです。しかも因縁を知ったものは、因縁を殺すものではなくて、因縁をほんとうに生かす人です。しかもその因縁を活かす人こそ、はじめて一切空の真理を、味わうことができるのです。しかし、その空は何物もないという、単なる虚無というようなものではありません。それは有を内容とする空ですから、私ども人間 の生活は、空に徹することによってのみ、有の存在、つまりその日の生活は、.りっばに活かされるのです。かくて、真に空を諦め、空を覚悟する人によってのみ、はじめて人生の尊い価値は、ほんとうに認識されるのです。
高神覚昇「般若心経講義」(角川ソフィア文庫)