次に、「顚倒夢想(てんどうむそう)を遠離(おんり)して、「究竟涅槃(くきょうねはん)す」ということですが、普通には、ここに「一切」という字があります。「一切顚倒」といっています。 ところで「顚倒」とは「すべてのものをさかさまに見る」ことです。無い物を、あるように見るのは顚倒です。
たとえば水はこんなもの、空気はこんなものと局限して、全く性質の違ったも のと思うことは、つまり顚倒です。水は温度を加えると、蒸発してガス体の蒸気になります。その蒸気を冷却さすか、または強い圧力を加えると、こんどは固形体の氷になります。しかしいずれもH20です。水素と酸素とが、二と一との割合で化合したものです、水は無自性です、きまった相はありません。
縁に従っていろいろ変化します。こうしたような事実は、この複雑なる、われわれの世界には非常に多いのです。曲がった見方をし て、錯覚や幻覚を起こしている連中は、いずれも皆「顚倒の衆生」であります。次に「夢想」とは夢の想いです。したがってそれは妄想(もうぞう)です。つまり、ないものを、あると思い迷う、今日の言葉でいえば一種の幻覚です。錯覚です。「幽霊の正体見たり枯尾花」というのがそれです。幽霊だと思うのは、枯尾花であることを、知らないから起こる一種の幻覚です。よく見れば、幽霊ではなくして枯尾花だったのです。で、つまり、「顕倒」も「夢想」も同じことで、要するに、私たちの「妄想」です。ですから、「顚倒夢想を遠離する」ということは、そうした妄想を打破ることです。克服し超越することです。その昔、相模太郎北条時宗は、祖元禅師から「妄想するなかれ」(莫妄想(まくもうぞう))という一喝(いっかつ)を与えられて、いよいよ最後の覚悟をきめたということです。
高神覚昇「般若心経講義」(角川ソフィア文庫)
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