今は故人になっていますが、私のかつて教えた学生の一人に、阿部という男がありました。性質は悪いというのではありませんが、いつも人と話す時には、目をいからし、口をとがらせて、ものをいう癖がありました。学生の演説会の時なんか、側で見ていると、まるで喧嘩でもしているような態度です。私はいつもその男に「和顔愛語」という、菩薩の態度を話したことです。和顔とは、やさしい和やかな顔つきです。怒っているような、いかめしい顔つきではなくて、いかにも春風駘蕩(たいとう)といったような顔つきです。朗らかな、やさしい顔つきといったらよいでしょう。私たちはお互いに些細なことに口をとがらし、目をいからす必要はないのです。おだやかに話をすればわかるのです。他人が自分を悪くいうその態度が気にいらぬとて、すぐに感情を害して顔にあらわす、果たしてそれでよいものでしょうか。まことに「わがよき人の悪しきのあらばこそ」です。
人の悪しきはわがあしきなり」です。他人を怨むまえに、まずわが身を省みる必要はないでしょうか。「他人を咎(とが)めんとする心を咎めよ」と清沢満之はいっています。そうした宗教的反省こそ、私どもにいちばん大切な心構えだと思います。次に愛語とは、情のこもった、慈愛に充ちた言葉づかいです。荒々しい棘のある言葉づかいでは、相手の反感をそそるだけです。全く、丸い玉子も切りようで四角にも三角にもなるごとく、ものもいいようで角がたつのです。あえて外交的辞令を用いよとは申しませぬが、お互いに言葉づかいに気をつけねばなりません。言葉の使いようで、成り立つことも成り立たぬ場合が往々あるのですから、もちろん、顔つきや、言葉づかいは、人格の自然の発露で、肝腎の人格の修養を度外視して、それだけを注意すればよいというのではありません。しかしとにかく和顔と愛語の二つは、我人(われひと)ともに十分に、心懸(こころが)けねばならないと存じます。とくに婦人の方には、この点を十分に反省してほしいと思います。どれだけ顔が綺麗でも、この二つのものが欠けていたらゼロです。無愛想だとか、無愛嬌(ぶあいきょう)だとか、いやな女だ、などといわれるのは、多くそこから起こるのです。「ぶらずに、らしゅうせよ」と古人もいっていますが、女らしさはここにあるのです。ところでここで一言申し上げておきたいことは、「和」ということです。「和を以て貴しとなす」(以レ和為レ貴)と、聖徳太子も、すでにかの有名な十七条の憲法の最初に述べられているごとく、何事によらず「和」が第一です。個人と個人の間でも、ないし社会、国家においても、この「和」ほど貴いものはないのです。和とは「平和」「調和」です。敗戦後の日本には、どこを探してもこの和がありません。今日こそ全く失調時代です。したがって私どもはなんとしても一日も早く和をとり戻さなくてはなりません。まことに「天の時は地の利に如かず、地の利は人の和に如かず」で、和の欠けた国家が隆昌し、発展したためしはありません。私どもは和衷協同の精神をもって、互いに愛しあい、労わりあい、助け合って、すみやかにわが民族の理想である、平和な、文化国家の創造に邁進すべきであります。しかし「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」と論語にもあるように、附和雷同は決して真の和ではありません。とかく日本人の欠点はこの附和雷同にあるのです。大和の国、とくに昭和(百姓昭明、万邦協和)の御代に生まれすむ、われわれ大和民族は、決して「同じて和せざる」小人であってはなりません。「和して同ぜざる」君子でなくてはなりません。少なくとも日本民族の理想は、この和して同ぜざるところにあるのです。「国挙る大事の前に光あり推古の御代の太子のことば」です。
けだし私どもにして、一たび宗教的反省をなしうる人となるならば、そこにはなんのこだわりも、わだがまかりも、障礙(さわり)もないのです。げに菩薩の道こそ、無礙の一道です。なんの障りもない白道です。「心経」に「心に罣礙なし」というのはそれです。
罣という字は、網のことです。魚をとる網です。礙という字は、障礙物がどという、あの礙という字で、さわり、ひっかかりという意味です。梵語の原典では、「罣礙なし」という所は「ひっかかりなしに動き得る」とありますが、何物にも拘束されず、囚われず、スムースに、自由に働き得ることが、すなわち「罣礙なし」ということです。金を求め、名を求め、権勢を求めるものには、どうしても罣礙なしというわけにはゆきません。金という網、名という網、権力という網にひっかかって、どうし ても、無礙というわけにはゆきません。
求めざるものこそ、「無礙の人」でありうるのです。まことに、ひっかかりなしに、自由に働きうることは、求めざる人によってのみ可能であるのです。次に「心経」に「罣礙なきが故に恐怖(くふ)あることなし」とありますが、恐怖とは、ものにおじることです。ものに怯(おび)え怖(おそ)れることです。恐ろしいという気持です。つまり不安です。心配です。心の中に、なんの恐れも、憂いも、心配も、苦労もない、というのが、「恐怖あることなし」です。浅草の観音さまへお参りすると、有名な玄岱(げんたい)という人の書いた「施無畏(せむい)」という額があります。施無畏とは、無畏を施すということで、元来、仏さまのことを一般に施無畏と申しますが、ここでは観音さまを指すのです。畏(い)とは恐れるという字です。慈悲そのものの権化たる観音さまは、愛憐(あいれん)の御手で、私どもを抱きとってくださるから、私どもには、なんの不安も恐れもないのです。だから観音さまのことを、「無畏を施すもの」、すなわち「施無畏」というのです。いったい「施す」ということは、さきほど申し述べました、あの「布施」です。梵語でいえば、ダーナで、あの檀那(だんな)さま、といった時のその「檀那」です。だからお寺の信者のことを「檀家」といいます。財物をお寺に上げるからです。これに対して、檀家からはお寺のことを「檀那寺」といいます。「法施」といって、「法を施す」からです。したがって、財物を上げぬ信者は「檀家」ではなく、法を施さぬ寺は「檀那寺」ではないわけです。
高神覚昇「般若心経講義」(角川ソフィア文庫)