古人は、「虚にして往いて、実にして掃る」すなわち虚往実帰ということをいっていますが、他家へ御馳走になりに行く場合でも、お腹がいっぱいだと、たとい、どんなおいしい御馳走をいただいても、少しもおいしくありません。だが、お腹を空かして行けば、すなわち虚にして往けば、どんなにまずくとも、おいしくいただいて帰れるのです。空腹には決してまずいものはないのです。無所得にしてはじめて所得があるのです。無所得こそ、真の最も大きい所得、いや無所得にして、はじめて大なる所得があるのです。利益があるのです。無功徳の功徳こそ、真の功徳です。さてこれまで、お話ししてきた
「心経」の本文は、皆、私どものお腹をからっぽにするためだったのです。「一切は空だ」何もかも皆、ないのだ、といって私どもの頭の中を、腹の中を掃除してくれたのです。もう私どもの頭の中はからっぼです。お腹はスッカリ綺麗に掃除ができているのです。「有ると見て、なきは常なり水の月」で、因縁によってできているものは、皆ことごとく水上の月だ。あるように見えて、実はないのじゃといって、今までは一切を否定してきたのです。いわゆる「無所得の世界」まで、私どもお互いを、引っばってきたのです。で、これからいよいよお話しする所は、空腹の前の御馳走です。したがって、これからはどしどし御馳走が、一々滋味と化して私どもの血となり肉となってゆくのです。「菩提薩埵の般若波羅蜜多によるが故に、心に罣礙(けいげ)なし」というのはそれです。
さてここで一応ぜひお話ししておきたいことは、「菩提薩埵」すなわち「菩薩」ということです。いったい大乗仏教というのは、この「菩薩の宗教」ですから、この菩薩の意味がよくわからないと、どうしても大乗ということも理解されないのです。ところで、菩薩のことを、この「心経」には菩提薩唾とありますが、これは菩薩の具名(くわしいなまえ)で、昔からこれを翻訳して、「覚有情(かくうじょう)」といっております。覚有情とは覚れる人という意味で、人生に目醒めた人のことです。ただし自分独りが目醒めているのではなく、他人をも目醒めさせんとする人です。だから、菩薩とは、自覚せんとする人であり、自覚せしめんとする人です。「人多き人の中にも人ぞなき、人となれ人、人となせ人」で、人間は多いが、しかしほんとうに目醒めた人はきわめて少ないのです。全く人ぞなきです。その昔、ソクラテスがアテネの町の十字街頭に立って、まっ昼間、ランプをつけて、何かしきりに探しものをしていました。傍(そば)を通った門人が、
「先生、何を探しているんですか。何か落としものでも?」と、尋ねたのです。ソクラテスは門人にいいました。
「人をさがしているのじゃ」
「人って、そこらあたりをたくさん通っているじゃアありませんか」
と、再(かさ)ねて、訊ねますと、哲人は平然と、
「ありゃ皆人じゃない」
といい放ったという話ですが、真偽はともかく、ソクラテスとしてはありそうな話です。ほんとうに「人多き人の中にも人ぞなき」です。だから私どもはその求められる人に自らならねばならぬと同時に、また他人を人にせねばならぬのです。教育の理想は「人を作ることだ」と聞いていますが、仏教の目的も、やはり人を作ることです。しかし、仏教でいぅ人は、決して立身出世を目的としているような人ではないのです。俸給を多くとり、賃銀をたくさんとるような、いわゆる甲斐性のある、偉い人を作るのが目的ではないのです。自ら勇敢に、ほんとうの人間の道を歩むとともに、他人をもまたその道を、歩ませたいとの熱情に燃える人です。いわゆる「人となれ人」「人となせ人」です。だからそれは大乗的です。自分一人だけ行くのではない。「いっしょに行こうじゃないか」と、手をとり合って行くのですから、小乗の立場とは、たいへんその趣を異にしています。したがって、菩薩とは、心の大きい人です。度量の大きい人です。小さい利己的立場を止揚して、つねに大きい社会を省みて社会人として活動する人こそ、ほんとうの菩薩です。「衆生の疾いは、煩悩(まよい)より生じ、菩薩の疾は、大悲より発(おこ)る」と「維摩経」に書いてありますが、そうした「大悲の疾い」をもっているのが、とりも直さず菩薩です。利己的な煩悩の疾いと、利他的な大悲の疾い、そこにある人間と、あるべき人間との相違があります。つまり凡夫と菩薩との区別があるわけです。このごろやかましくいわれるデモクラシイ(民主主義)も、こうした人間的自覚をもった人が、出てこないかぎりとうてい確立することはできません。
あの十字架にかかったキリスト、一切の人々の罪を償ぅために、すべての人々の 救済のために、十字架にかかったとすれば、そのキリストのこころこそ、まさしく菩薩のこころです。十字架を背負うた彼が、その十字架を背負わせた、その人たちの罪の救いを、かえって神に祈っている心もちは、まことに尊くありがたいも のです。
聖書にこういう文句(ことば)があります。「一粒の麦、地におちて死なずば、ただ―つにて終わらん。死なば多くの実を生ずべし」と。キリストは十字架にかかりました。しかしそれによって多くの人々は救われたのであります。キリスト教の是非はともかく、私たちは異教徒という名のもとにいたずらにこれを看過したり、排撃したりすることはできないのです。宗教人の名において、菩薩の名において、彼を賞讃し、景仰すべきであると思います。
高神覚昇「般若心経講義」(角川ソフィア文庫)