ところで、仏教ではこの菩薩の生活、すなわちほんとうの人間生活の理想を、四つのカテゴリー(形式)によって示しています。四摂法(ししょうほう)というのがそれです。「摂」とは摂受(しょうじゅ)が意味で、つまり和光同塵(どうじん)、光が和(やわ)らげて塵に同ずること、すなわち一切の人たちを摂(おさ)めとって、菩薩の大道に入らしめる、善巧(たくみ)な四つの方便(てだて)が四摂法です。四つの方便とは、布施と愛語と利行と同事ということです。布施とは、ほどこしで、一切の功徳を惜しみなく与えて、他人を救うことです。愛語とは、慈愛のこもった言語をもって、他人によびかけることです。利行とは、善巧な方便をめぐらして、他人の生命を培う行為です。同事とは他人の願い求める仕事を理解して、それを扶け誘導することです。禍福を分かち、苦楽を共にするというのがそれです。しかし、お経にはかように菩薩の道として四つの方法が説かれていますが、その四つの方法の根本は結局、慈悲の心です。貪り求めるこころ、すなわち貪慾の心を離れた慈悲のこころをほかにして、どこにも「菩薩の道」はないのです。

あわれみをものに施すこころよりほかに仏の姿やはある

で、あわれみを施す慈悲の心こそ菩薩のこころです。いや、それがそのまま仏陀の心で
す。だから「菩薩の行」として仏教には六度、すなわち六波羅蜜(はらみ)ということが説かれてありますが、その六波羅蜜の最初の行は布施です。この布施の行為が母胎となって、他の五つの勝業が生まれるのです。ところで、波羅蜜とは、般若波羅蜜多のその波羅蜜で、すでに述べたごとく、それは「彼岸に到る」ということです。この岸から術の岸へ渡るのに、六つの行があるというのが、この六波羅蜜、すなわち六度です。布施と持戒と忍辱(にんにく)と精進と禅定ど智憲がそれです。布施とは、ただ今も申し上げたごとく、貪欲のこころをうち破って、他に憐みを施すことです。持戒とは、規則正しい生活の意味で、道徳的な行為(おこない)です。忍辱とは、堪(こら)え忍ぶで、忍耐です。精進とは、努め励むことで、全生命をうちこんで努力することです。禅定とは、沈着です。心の落ちつきです。「明鏡止水」という境地です。智慧とは、これまでたびたび申し上げている般若の智慧です。ものごとをありのままにハッキリ認識することです。だから、所詮、菩薩の行は、この六度の行を離れて他にはないわけです。
高神覚昇「般若心経講義」(角川ソフィア文庫)