次に第二の真理すなわち「集諦(じゅうたい)」とは、つまり人生の苦は、どこから起こるかというその「原因」をいったものです。すなわち「苦諦(くたい)」を、いま人生はどうあるかの問題に対する説明とすれば、「集諦」は、「なにゆえにそうであるか」の問題に対する説明ということができましょう? 英語でいえばホワット(何か)とホワイ(なにゆえ)といってもよいでしょう。つまり「なにゆえに人生は苦であるか」という、その苦によって来る原因の説明が、この「集諦」です。苦を招き集めるもの、いわゆる苦の原因が、この「集諦」です。ここでちょっと、仏教とマルキシズムの「苦」に対する考え方を、比較しておく必要があります。かつてマルクス主義者は、口を開けばすぐブルジョアがいけないと、まるで敵(かたき)のように罵(ののし)りました。不倶戴天(ふぐたいてん)のごとくに攻撃いたしました。社会の不安も、社会苦も、生活苦も、ことごとく資本家の罪に帰して、社会機構の欠陥を叫びました。だが、果たしてそれは正しい見方でしょうか。 間違いのないほんとうの議論でしょうか。一時、主義者は宗教をアヘンのごとくいいふらしました。そして仏教をも宗教の名のもとに、極端に排撃しました。だが、元来マルクスの宗教理論は、もっばらキリスト教を中心として考察したものです。仏教のごときは、まったく彼は知らなかったのです。いや、一歩ゆずって、かりに知っていたとしても、マルクスには仏教のふかい教理が、如実に理解されていなかったのです。にもかかわらず、かつての共産主義の人たち(現在も同様:ブログ作者注)は、彼の幼稚な宗教理論を公式的に暗記して、キリスト教とは全くその性質を異にしている仏教をも、宗教という名のもとに排撃の対象としましたが、果たしてそれは正当な認識でしょうか。それから、いったいマルクスのいう現実の苦というのは、無産者だけの苦です。プロレクリャだけの生活苦です。したがってそれは人間全体の苦ではありません。すなわち釈尊が四苦八苦といわれた、その苦諦の苦ではないのです。少なくとも人間苦といい、社会苦といわれる苦には、資本家だとか、無産者だとかいうよな区別はありません。四苦八苦は、人間としての苦しみです。社会的存在としての人間の普遍的な、そして共通の苦しみです。ですから、マルクスのいう苦は、どこまでも経済生活の上の悩みですから、四苦八苦のホンの一部分でしかありません。強いていえば「求めて得られざる苦しみ」(求不得苦(ぐふとくく))でしかありません。
むずかしいめんどうな議論はさし控えましょう。しかし、もう一言ここでいわしていただきたいのは、苦の原因についての問題です。いったいマルクスは、人間苦、いやプロレクリヤの生活苦の原因をぱ、あくまで社会機構の欠陥に求めました。資本主義制度の矛盾におきました。「資本家の搾取」、それが彼らのスローガンなのでした。それが彼らの一枚看板でした。だからその苦の内容は、どこまでも物質でした。経済的でした。語を換えて申しますならば、その苦は内よりくるものではなくて、外よりきたものでした。だが釈尊は、これと正反対の立場から、苦の原因を説いているのです。
「実の如く苦の本を知るとは、いわく現在の愛着の心は、未来の身と欲とをうけ、その身も欲とのために、更に種々の苦果を求むるなりと知る」(中阿含経)
高神覚昇「般若心経講義」(角川ソフィア文庫)