かつて白隠禅師の師匠、正受老人は、私どもにこんなことばをのこしております。それは「一日暮(ぐらし)」というのです。
「いかほどの苦しみにても、一日と思えば堪え易し。楽しみもまた一日と思えば、ふけることもあるまじ。親に孝行せぬも、長いと思う故なり。一日一日と思えば、理窟はあるまじ。一日一日とつもれば、百年も千年もつとめ易し。一生と思うからに大そうなり。一生とは長いことと思えども、後のことやら、知る人あるまじ。死を限りと思えば、一生にはたされやすし。一大事と申すは、今日只今の心なり。それをおろそかにして、翌日あることなし。凡ての人に遠きことを思えば、謀ることあれど、「的面(てきめん)の今」を失うに心つかず」
まことに一大事とは、今日只今の心です。その心をほかにして、ほんとうに生きる道はないのです。有名な山鹿素行(やまがそこう)はまたわれらにこんな言葉をのこしています。
「大丈夫ただ今日一日を以て極とすべきなり。一日を積んで一月に至り、一月を積んで一年に至り、一年を積んで十年とす。十年相累(かさな)りて百年たり。一日なお遠し、一時にあり。一時なお長し、一刻にあり。一刻なおあまれり、一分にあり。ここを以っていう時は千万歳のつもりも、一分より出で、一日に究まれり」
ほんとうに考えさせられることばです。「いうことなかれ、今日学ばずして、来日ありと」です。「いうこと勿れ、今年学ばずして、来年ありと」です。「日月逝きぬ。歳月われを待たず」です。「嗚呼、老いぬ」と歎じてみたとて、「これ誰のあやまちぞや」です。くり返していう。一大事とは、実に今日只今の心です。今日只今の心こそ、まさしく一大事です。ゆえに、今日をただ今日としてみる人は、真に今日を知らざる人です。今日の一日を「永遠なる今日」としてみる人こそ、真に今日を知れる人です。刹那に永遠を把む人です。掌(たなごころ)に無限を把握しうる人です。しかも、この今日に生きる人こそ、真に過去に生き得た人です。未来にも生き得る人です。まことに、空に徹し、般若の智惹を体得した人は、「永遠の相(すがた)」において、人生を熱愛する人です。しかも永遠の相において人生を眺めうる人は、断じて人生を否定し、人生を拒否する人ではありません。冷たい白眼をもって、いたずらに人生を批判する人ではなくて、暖かい青眼をもって人生を享受する人です。空に徹した、あの観自在菩薩の世界には捨つぺき煩悩(まよい)もなく、とるべき菩提(さとり)もありません。したがって厭うべき娑婆もなければ往くべき浄土もありません。娑婆即寂光、娑婆こそそのまま浄土です。「無明なく、無明の尽くることなく、老死なく、老死の尽くること」もありません。生死涅槃は、畢竟昨日の夢です。煩悩はそのまま菩提です。生死は即ち涅槃です。しかも「永遠に立脚して、刹那に努力する人」こそ、はじめてかかる境地を、ほんとうに味わうことができるのであります。
高神覚昇「般若心経講義」(角川ソフィア文庫)
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