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商人の話
昭和九年の春、AKから「般若心経」の放送をしている時でした。近所の八百屋さんが宅へ参りまして、家内に、冗談のように、「この頃は毎朝、お宅の先生のラジオ放送で、空だの、無だのというような話を聞かされているので、損をした日でも、今までと違ってあんまり苦にしなくなりました」といって笑っていたということですが、たとい、空のもつ、ふかい味わいが把めなくても、せめて「裸にて生まれて来たになに不足」といったような裸一貫の自分をときおり味わってみることも、また必要かとおもうのであります。その昔幕末のころ、盛んに廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)をやった水戸の殿様に、ある禅寺の和尚さんが、

「君は僅かに是れ三十五万石、我れは是れ即三界無庵の人」

といったという話がありますが、あなたはたった三十五万石だ、私は「三界無庵の人」だといった、その心持には味わうべき貴いものがあるかと存じます。おもうに三界無庵の人こそ、その実、いたるところに家をもつ三界有庵の人です。「無一物中無尽蔵」です。そこには、花もあれば、月もあります。私どもは、般若の「空」がもっているほんとうのもち味をかみしめつつ、いたずらにくよくよせずして、ゆったりと落もついた気分で、お互いの人生を、社会を、広く、深く、味わってゆきたいものです。
さてこれからお話ししようとする所は、

「無明もなく、また無明の尽くることもなく、乃至老死もなく、また老死の尽くることもなし」

という一節であります。すでに私は「仏教の世界観」を契機として、それによって「一切は空なり」ということをお話ししたのですが、これからは「仏教の人生観」の上から、「一切は空なり」ということをお話しするわけであります。ところで最初の所は、有名な「十二因縁」の問題を取り扱っているのですが、「心経」には「十二因縁」の一々の名前はなくて、ただ最初の「無明」と、最後の「老死」とを挙げてあるのみで、その中間は、「乃至」という文字でもって省略してあるのです。そして「無明もなく、無明の尽くることもなく、老死もなく、老死の尽くることもなし」とて、十二因縁の空なることを説いてあるのですが、いったい般若の真空(しんぐう)の上よりいえば、客観的に宇宙の森羅万象が空であったがごとく、主観的にも、宇宙の真理を語る所の、智慧そのものもまた空だ、というのが、「無明もない」、「老死もない」ということ、すなわち十二因縁もまた空だというのがそれです。ところで、この「十二因縁」の一々についての、詳しい説明は、かえって煩瑣(はんさ)ですし、またここではその必要を認めませんので省略しておきますが、ただここで、ぜひとも注意すべき大切なことは、「十二」という数字よりも、むしろ「因縁」という二字が大事だということです。すなわち十二という数が、必ずしも特別に重要な位置を占めるものではなくて、「因縁」ということが必要なのです。「因縁」ということ、因縁の内容をば、十二の形式によって説明したものが、この「十二因縁」でありまして、これは結局、「因縁」という一語につきるわけです。したがって、開けば十二、合すれば因縁の一つと いうわけです。
高神覚昇「般若心経講義」(角川ソフィア文庫)