まことに、因縁より生ずる一切(すべて)の法(もの)は、ことごとく空です。空なる状態にあるのです。まさしく「樹を割りてみよ、花のありかを」です。雪ふりしきる厳冬のさ中に、花を尋ねても、花はどこにもありませぬ。これがとりも直さず「色即ち是れ空」です。しかし、霞たなびく春が訪れると、いつとはなしに、枯れたとみえる桜の梢には、花がニッコリ微笑んでおります。これがすなわち「空即ち是れ色」です。何事によらず、いつまでもあると思うのも、むろん間違いですが、また、空だといって、何物もないと思うのももとより誤りです。いかにも「謎」のような話ですが、有るようで、なく、無いようで、ある、これが世間の実相(すがた)です。うき世のほんとうの相です。むだが、決してそれは理窟ではありませぬ。仏教だけの理論ではないのです。それは、いつどこで誰れもが、必ず認めねばならぬ、宇宙の真理です。偽りのない現前社会の事実です。まことにその「有」たるや、「空」に異ならざる「有」です。「空」といっても決して「無」ではありません。「有」に異ならざる「空」です。空と有とは、所詮、一枚の紙の裏表です。生きつつ死に、死につつ生きているのが、人生の相です。生じては滅し、滅しては生ずるのが、浮世の姿です。しかし、私どもはとかく、有といえば、有に囚われます。空といえば、その空に囚われやすいのです。ゆえに「心経」では、有に囚われ、色に執着するものに対しては、「色は空に異ならず」、色がそのまま空だというのです。また空に囚われ、虚無に陥るものに対しては、「空は色に異ならず」、「空は即ち是れ色」だといって、これを誡めているのです。「心経」の、この一節は、実にすばらしい巧みな表現といわざるを得ないのです。けだしわが大乗仏教の原理は、この一句で、十分に尽きておるといってもよいくらいです。まことに「色即ち是れ空」、「空即ち是れ色」です。
高神覚昇「般若心経講義」(角川ソフィア文庫)