今からちょうど百年ほど前です。ロンドンのテームス河の畔(ほとり)で一匹の小さい船喰虫が、頻(しき)りに材木をかじっていました。ちょっときくと、それは私どもお互いとは、なんの関係もないようです。しかし一度でも、あの地下鉄を見た人、地下鉄に乗った人ならば、断じて無関係だとはいえませぬ。なんの因縁もないなどとはいえないのです。なぜかというに、いったい地下鉄道の発明者プルーネルが、テームス河の、河底を掘り得たことは、何に由来しておるのでしょう?  材木をかじる、あの船喰虫にヒントを得たのではありませんか。そして、「人間の力では、とても掘ることができない」とまでいわれた、あのテームス河の河底を、彼は、りっぱに開鑿(かいさく)しておるではありませんか。
地下鉄道と船喰虫!  なんの因縁もなさそうです。しかし実は、因縁がないどころか、たいへん深い因縁があるのです。おもうに、因縁によってできている一切の事物、五蘊の集合、物と心の和合によって、成り立っている、私どもの世界には、何一つとして、永遠に、いつまでも、そのままに、存在しているものはありません。つねに変化し、流転しつつあるのです。仏陀は「諸行無常」といいました。ヘラクライトスは「万物流転」といいました。
万物は皆すべて移り変わるものです。何を疑っても、何を否定しても、この事実だけは、何人も否定できない事実です。咲いた桜に、うかれていると、いつのまにやら、世の中は、青葉の世界に変わっています。
高神覚昇「般若心経講義」(角川ソフィア文庫)