因縁!   それはまことに平凡な古い語です。しかし、それは、たしかに、平凡ではありますが、どうしても疑うことのできない宇宙の真理です。今日私どもが思いあまって、「何事も因縁だ」と諦めるそのことばの中には、私どもの容易に説明し得ない、深い真理が含まれているのです。
「因縁を知ることは仏教を知ることだ」
と、古人もいっていますが、たしかにそれは真実だと思います。釈尊は、実にこの「因縁の原理」、「縁起の真理」を体得せられて、ついに仏陀となったのであります。菩提樹下の成道、というのはまさしくそれです。げに、わが釈尊をして、真に仏陀たらしめたものは、全くこの因縁の真理なのです。ちょうどあのニュートンが、地球の引力を発見したように、釈尊は、これまで何人も気づかなかった「万物は因縁より生ずる」という、この永遠なる「平凡の真理」をはじめて発見されたのです。だから、「因縁の真理」は決して釈尊が、新しく創造されたものではありません。釈尊は、因縁の創造者ではなくて、実にその発見者なのです。釈尊は、自ら因縁の真理を発見されて、まさしく仏となられました。しかし、それと同時に、この因縁の法を「教え」として、万人の前に説き示されたのが仏教です、因縁の教え、それが仏教です。真理の教え、それが仏教です。釈尊は仏教を信ぜよといっていません。しかし、因縁の法を信ぜよといっています。しかもこの因縁の真理を信ずるものこそ、まさしく仏教を信ずるものです。したがって、たとい、二千数百年の昔に、釈尊の肉身はごくなっても、因縁という真理そのものは、因縁という法は、法身(ほうしん)の相(すがた)において、永遠不滅なる仏教の真理として、いな、宇宙の真理として、今日においても厳然とと光っています。いや未来永劫(えいごう)に、いつまでも「不朽の真理」として、光り輝いてゆくのであります。
ところで、この因縁とはいったいどんなことかというと、くわしくいえば「因縁生起」ということで、つまり、因縁とは、「因」と「縁」と「果」の関係をいった言葉で、因縁のことをまた「縁起」とも申します。すなわち、「因」とは原因のこと、結果に対する直接の力です。「縁」とは因を扶けて、結果を生ぜしめる間接の力です。たとえばここに「一粒の籾」があるといたします。この場合、籾はすなわち因です。この籾をば、机の上においただけでは、いつまでたっても、一粒の籾でしかありません。キリスト教の聖書のうちに、一粒の麦、地に落ちて、死なずば、ただ―つにて終わらん。死なば多くの実を生ずべしとあるように、一たび、これを土中に蒔き、それに雨、露、日光、肥料というような、さまざまな縁かかが加わると、一粒の籾は、秋になって穣々たる稲の穂となるのです。これがつまり因、縁、果の関係であります。ですから、花を開き、実を結ぶ、という結果は必ず因と縁との「和合」によってはじめてできるわけです。ところが、私どもは、とかく皮相的の見方に慣れて、すべての事柄を、ことごとく単に原因と結果の関係において見ようとしているのです。しかし、これはどうかと思います。複雑極まりなき、一切の物事をば、簡単に、原因と結果という形式だけで、解釈しようとすることは、ずいぶん無理な話ではないでしょうか。さて、この因縁によってできた、因縁によって生じ来った、あらゆる事物は、いったいどんな意味があり、どんな性質をもっておるかと申しますと、それは実に縦にも、横にも、時間的にも、空間的にも、ことごとく、きっても切れぬ、密接不離な関係にあるのです。
ちょっとみるとなんの縁もゆかりもないようですが、ようく調べてみると、いずれも実は皆きわめて縁の深い関係にあるのです。躓(つまづ)く石も縁のはしです。袖ふりあうも他生の縁です。一河の流れ、一樹の蔭、みなこれ他生の縁です。だが、それは決して理窟や理論ではありませぬ。考えるからそうだ、仏教的にいうからそうだ、というのではありません。考える考えぬの問題ではないのです。仏教的だとか、仏教的でないなどという問題ではないのです。これはほんとうに事実なんです。真実なのです。事実は、真実は、何よりも雄弁です。いま私のいる部屋には、一箇の円(まる)い時計がかかっています。この時計の表面は、ただ長い針と短い針とが、動いているだけです。しかし、いま、かりに、この時計の裏面を解剖してみるとしたらどうでしょうか。そこには、きわめて精巧、複雑な機械があって、これが互いに結合し、和合して、その表面の針を動かしているのではありませんか。私は現にただ今この東京鷺宮が無窓塾の書斎でペンを動かしています。
これはもちろん、簡単な事実です。しかしこの無窓塾がどこにあるかを考え、私、および私の故郷伊勢の国のことなどを考えて、だんだん深く、そして広く考えていきますと、終(つい)にはこの一箇の私という存在は、全日本はおろか、全世界のすぺてに関係し雰威していることになるのです。かように、一事一物、皆ことごとく関聯していないものはないのです。ただ、私どもがそれを知らないだけのことなのです。しかし知ると知らざるとにかかわらず、一切のものは互いに無限の関係において存在しているのです。次にまた時間的に申しましても、今日という一日は、決して昨日なしにないのです。明日ときり離して、今日一日だけがあるのではありません。今日は単なる今日でなくて、ライプニッツのいうように、「昨日を背負い、明日を孕んでいる今日」なのです。とにかく私どもの世の中にある一切の事物は、みな孤立し、固定し、独存しているのではなくて、実は、縦にも、横にも、無限の相補的関係、もちつもたれつの間柄にあるわけです。すなわち無尽の、縁起的関係にあるわけです。したがって現在の私どもお互いは、無限の空間と永遠の時間との交叉点に立っているわけです。
高神覚昇「般若心経講義」(角川ソフィア文庫)