空即是色花ざかり
たしか小笠原長生氏の句だったと思いますが、
舎利子みよ空即是色花ざかり
という句があります。ほんとうにこの一句は、これから申し上げようと思っている「心経」の精神を、たいへん巧みにいい現わしていると存じます。申すまでもなく、これは「心経」が骨を折って、力強く説いておる「空」ということばは、決して空々寂々というような、何物もないのだというような、そんな単純な意味のものではない、ということを簡単な一句で巧みに、表現わしているのです。ところがいよいよこれから、問題の「空とはなんぞや?」、「空とはどんな意味か」という問題を、説明するのでありますが、はじめから皆さんに「空」とはこんなものだと説明していっては、かえってわかりにくいし、またそう簡単にたやすく説明できるものではないのですから、その「空」を説明する前に、まずはじめに、「空の背景」となり、「空の根抵」となり、「空の内容」となっているところの「因縁」という言葉からお話ししていって、そして自然に、空という意味を把んでいただくようにしたい、と思うのであります。なぜかと申しますと、この「因縁」という意味を知らないと、どうしても空ということが把めないのです。ところで、まず本文のはじめにある「舎利子」ということですがへこれはむろん、人の名前です。釈尊のお弟子の中でも智慧第一いわれたあのシャーリープトラすなわち舎利弗尊者のことです。いったいこの舎利弗は、もと婆羅門の坊さんであったのですが、ふとした事が動機で、仏教に転向した名高い人であります。
舎利弗の転向
ある日のこと、舎利弗が王舎城の市中を歩いている時です。偶然にも彼は釈尊のお弟子のアシュバーヂットすなわち阿設示(あせつじ)というお坊さんに出逢ったのです。そしてその阿説示から思いがけなく、次のごときおどろくぺき真理の言葉を聞いたのでした。
「一切の諸法は因縁より生ずる。その因縁を如来は説き給う」
というのがそれです。今日の私どもには、なんでもない平凡な言葉としか聞こえませんが、さすがに舎利弗には、この「因縁」という一語(ことば)が、さながら空谷(くうこく)の足音のごとくに、心の耳に響いたのでした。昔から仏教では、この一句を「法身偈(ほっしんげ)」または「縁起偈(えんぎげ)」などといっていますが、彼はこの言葉を聞くなり、決然として、永い間、自分の生命(いのち)とも頼んでおった、婆羅門の教えをふり捨てて、ただちに心友の目連尊者といっしょに、釈尊のみ許(もと)に馳せ参じ、ついに仏弟子となったのであります。「因縁」の語を聞いて、仏教に転向したわが舎利弗こそ、実に解空(げくう)第一の人であり、智慧第一の人であったのです。この智慧第一の舎利弗を対告衆(あいて)として、釈尊は「舎利子よ」と、いわれたのです。そして「色は空に異ならず、空は色に異ならず」とて、空の真理を諄諄々(じゅんじゅん)と説かれていったのです。
高神覚昇「般若心経講義」(角川ソフィア文庫)