ところで、これについて思い起こすことは、あの「維摩経」にある文殊菩薩との問答です。あるとき、維摩が文殊に対して、不二の法門、すなわち真理とはどんなものか、と質問したのです。その時、文殊菩薩は、こう答えています。
「不二の法門は、私どもの言葉では、説くことも、語ることもできないものです。真理は一切のわれわれの言葉を超越しています」
そこで今度は、反対に文殊菩薩が、維摩居士に同じく、不二の法門とはなんぞや?と反問しました。すると、維摩はただ黙って、何も答えなかったというのです。
「時に維摩、黙然として、言無し」
と、「維摩経」に書いておりますが、黙然無言の一句こそ、実に文殊への最も明快な答えだったのです。さすがは智慧の文殊です。
「善いかな、乃至、文字語言あることなし。これ真に不二の法門に入る」
とて、かえって維摩の「黙」を歎称しているのです。古来、「維摩の一黙、声雷のごとし」といっておりますが、この黙の一字こそ、非常に考えさせられる言葉だとおもいます。

鳴かぬ蛍
「恋にこがれて嗚く蝉よりも、鳴かぬ蛍が身を焦がす」といいます。泣くに泣かれぬといいますが、この境地が最も悲痛な世界です。涙の出ない涙こそ、悲しみの極みです。
あえて真理にかぎらず、すべてのものごとについても、不完全な私どもの言葉では、とうていものの「真実」、「実際」をありのままに表現することはできないものです。

一杯の水
「一杯の飲みたる水の味わいを問う人あらば何とこたえん」です。自分自らまさしく生身の活きた観音さまです。かかるがゆえに、私どもは、少なくとも、自分の姿において、観自在菩薩を見出すとともに、観自在菩薩において、自己のほんとうの姿を見出さねばならぬものであります。空の意味についての詳しい説明は、次の講に改めて申し上げることににいたします。
高神覚昇「般若心経講義」(角川ソフィア文庫)