「恋にこがれて鳴く蝉よりも、鳴かぬ蛍が身を焦がす」どいいます。泣くに泣かれぬといいますが、この境地が最も悲痛な世界です。涙の出ない涙こそ 悲しみの極みです。あえて真理にかぎらず、すべてのものごとについても、不完全な私どもの言葉では、とうていものの「真実」、「実際」をありのままに表現することはできないものです。一杯の水「一杯の飲みたる水の味わいを問う人あらば何とこたえん」です。自分自ら飲んでみなければ、水の味わいもわかりません。うまいか、辛いか、甘いかは自分で飲んでみなければ、その味はわからないのです。「まず一杯飲んでごらん」というより方法がありません。あの有名な「起信論」に「唯証相応](唯だ証とのみ相応する)という文字がありますが、すべてさとりの世界は、たださとり得た人によってのみ知られるのです。しょせん、さとりの世界のみではなく、一切はたしかに「冷煗自知(れいなんじち)」です。冷たいか暖かいかは自分で知るのです。ちょうど、子を持って、はじめて子を持つことの悩み、欣ぴがわかるように、私どもは子をもって、親の恩を知ると同時に、子の恩をも知ることができるのです。
三千世界に子ほどかわいいものがないということを知らしてくれたのは、全く子の恩です。自己を忘れて子供をかわいがる。その無我の心持、利他の喜ぴを、教えてくれたのは、ほんとうに子供のおかげです。全くうき世のこと、すべて唯証相応です。自ら体験しないと、ほんとうの味がわかりません。

苦労人の世界
一度も苦労したことのない人には、苦労人のもつ心境は少しもわかりません。入学試験に落第したことのない人には、とうてい落第した人の、悲痛な、やるせない心持がわかろうはずはありません。苦労した人のみ、苦労した人を慰め、導き、教えることができるのです。しかも、その慰めは決して言葉ではありません。心持です。気もちです。その態度です。黙って手を握る、それでよいのです。甘い言葉や、美しい言葉では、とうてい傷ついた人の心を、救うことはできないのです。
ごく親しい仲のよい友だちが久しぶりで偶然出逢います。そんな時には、いろんな、めんどうなご無沙汰のおわびや、時候の挨拶などはありません。「ヤア」「ヤア」といいながら、互いに堅く手を握り合う。それでよいのです。眼が口ほどに、いや口以上にものをいうのです。その「ヤア」という一言で、平素の御無沙汰やら、時候の挨拶は、みんなスッカリ解消してしまっているのです。
高神覚昇「般若心経講義」(角川ソフィア文庫)