四柱推命をはじめ、運命学と言われる方法に関わる人は、生まれた瞬間にその人の一生のあいだに起きる事柄の事細かな点にいたるまで、すべてが決定していると信じていて、このことはあえて論じる必要さえない大前提としていることだろう。言い方を換えれば、人生の過程に発生する出来事はすべて必然であり、そこには偶然などという不確実な要素は一切入り込む余地はないと考えているのである。
しかし、このよく見聞きする考え方によると、例えば、地震に遭い命を落とすようなことさえも生まれた瞬間に決定していなければならないことになるため、この考え方が正しいとするなら、一個人の運命と言われるものと、地震の原因である地殻変動が連動していなければならないという馬鹿げた話に行き着いてしまうことになるのである。地震はあくまで偶発的な出来事でしかなく、地震という災禍に見舞われることが、生まれた瞬間に逃れることができない形で決定していたなどと考えることは、まったく論外な話なのである。
しかし、占いを絶対的なものと信じている人はこれでは都合が悪いので、姓名の画数が悪いことが原因であるとか、方位が悪いとか、家相が悪いとか、別の理由づけをするのであるが、いずれも牽強付会の説であることは免れないのである。
また一方では、生きていく過程に起きる事柄は、すべて偶然の出来事であるから、生年月日時から人の将来を予知できるはずがない、と考える人もいる。これは占いとか運命学全般を否定する立場にある人に見られる考え方である。この考え方は、一見科学的で正当性があるように思われるのではあるが、身の回りの出来事を注意深く観察するなら、偶然性だけではなく、つねに必然的過程が伴うという事実からして、誤りであることが明らかになる。
では、偶然性と必然性をどのように勘案し、運命学の一つである四柱推命を考えればよいのであろうか。
例えば、あなたに無二の親友と言える人がいたとする。その人と親友になることが、生まれた瞬間、あるいは生まれる前のはるか昔から決まっていたなどということは、あり得ないのである。同じ時代の、同じ国の同じ地域に暮らし、めぐり会ったこと自体は「偶然」の出来事なのである。しかし、「偶然」めぐり会った後、親友であるという想いを抱くことになったのは、互いの生育環境とか、それぞれの性格、および内面的な要素等からして「必然」だったのである。
あるいは、一生の伴侶にめぐり逢うこともまた、決して生まれた時から赤い糸で結ばれていたわけではない。二人がめぐり逢ったこと自体はあくまで「偶然」の出来事なのである。しかし、めぐり逢った後に二人の間で始まった過程は「必然」と考えられるのである。
生きていく過程、つまり人生とは、その人の中に存在する必然性が、外部からもたらされる偶然性によって規定されつつ、必然性と偶然性が絶え間なく連関し、変化し続けることなのである。
そして四柱推命は、生年月日時を情報源として、その人に生来備わっている内的要因に起因する必然性のあり方を知ることができる方法であり、その必然性が、偶然の出来事にどの ように規定されるかを推察することによって、その人が歩む人生を推し量る方法なのである。
本書の主旨は、ここ数年の研究成果をもとに、前著「命運を推す』で不足していた部分を追記するとともに、必然性と偶然性の連関を明確にすることにより、神秘主義的であり、また形而上学的で観念論的である四柱推命のあり方と決別することにある。そして、四柱推命を極めたなら、あたかも神のように、人の将来に起きる事柄を何もかもすべて予知できると考えることは、空想でしかないことを明らかにすることにある。
本書によって、古代中国人の叙智の結晶である四柱推命が、科学といわれるものに一歩近づき、いっそう輝きを増すものと確信している。

「四柱推命学入門」小山内彰 (希林館)より