◇易は単なる運勢判断ではない

易を科学的でないと退けることは簡単です。しかしわたしたちは、日常の思考や行動すべて科学的にしているでしょうか。たとえば、何か悩みごとがあったとき、それを解決するのは、その人の主観的な判断であることがほとんどです。

実際生活の中でやっかいな問題がおこったとき、わたしたちはいつも理解力、感受性、情緒、直観、確信などに基づいてそれを処理している。しかし、こういう能力が有効で妥当であることを科学的に立証できるであろうかとユング博士は疑問を投げかけます。

この疑問はまったく正当なもので、たとえば結婚相手を選ぶ場合に科学的に考える人はまずいません。そこでは感性、情緒が先行しています。会社選びなどの進路決定や計画、願望の実践においても同様です。

人生は選択と決断の連続ですが、わたしたちがそれを実行するときに、部分的には科学的思考や計算を取り入れることはあっても、決断そのものを科学に頼っているわけではい。それまでの自分の経験や知識、情報に基づいて、それぞれが総合的判断をしているわけです。

易はその個人が総合的に判断するときの材料を提供してくれます。これをもって易占を運勢判断と解釈する人がいるわけですが、そこに示される回答を、そのままその人の勢(未来予測)と見るのは早合点というものです。本書の後半部分に目を通されればわかることですが、易占いの最初の回答は象徴的な言葉でしかないからです。

その回答からあなたは自分のおかれている情況に対処するアドバイスを受ける。そして自分がどう行動したらいいかを自分自身で選択するのです。ですから、正確な表現をすれば易は運勢を判断するのではなく、運勢を選択するものなのです。

それが単なる運勢判断になってしまうのは、その人に自主性がなくて、自分の運命を選択でぎないからです。たとえば、 あなたが職を替えようとしていて、易を立てたら「いまは替えるべきではない 」という回答を得たとします。問題はこの瞬間からなのです。

あなたがこの回答通りに職を替えなかったとしましょう。その結果、あまり良いことがなかったとします。すると、あなたはこう考えます。

「あのとき替えるべきだった。易など当てにならない 」

逆に易の結果にもかかわらず強引に替えたところ、仕事はたいへんうまくいった。そときあなたは「易など当てにならない」というでしょうか。

たぶん、いわないでしょう。人間は自分がうまくいっているときは不満はあまり口にしないも のなのです。うまくいっていないときに不満が出てくる。実際問題として、職を替えてうまくいったにしても、替えなかったらもっとうまくいったかも知れない。それは誰にもわからないことです。

また、易の回答に従ったのに「うまくいかなかった」と文句をいう人も、もし替えていたらもっとひどい結果になったかも知れない。人間は同時に二つの道を行くことができないのだから、

いったいどっちが正しかったか、良かったかは永遠の謎なのです。

あるのは、結果に対するその人の感想しかありません。

では、易は何のためにあるのか。

それは迷ったときの選択の指針です。Aの道とBの道があって、どっちにしたらいいかというとき、誰でもが自分の頭で考える。しかし、なかなか結論が出せない。Aがいいと思うが、Bも捨てきれない。こういうときに人に相談するかわりに『易経』に相談する。

「何も易じゃなくて、経験豊かな人にでも相談すればいいのではないか」とあなたは思いますか。たしかに、相談することはいくらでもできます。しかし、易にはどんな人間に相談するよりもはるかにすぐれた知恵の体系がある。しかもそれは一冊の書物と簡単な方法であなた自身がどこででも相談することができる。これを利用しない手はありません。

 

「マーフィの易い」J.マーフィ(昭和61年、産能大学出版部)