暦のことについて、かんたんに説明しておきます。
現在われわれが使用している太陽暦は1582年にローマ法皇グレゴリオ十三世が正式に決定、採用した、いわゆる「 グレゴリオ暦」で、これによると一暦年は365.2425日となります。
ふつうの生活に関するかぎり、この科学的な暦には何の問題もありません。そして、この中途半端な時間を処理するために、閏年というものをおき、四年に一度ずつ二月を二十九日とすることになっているのはみなさんもごぞんじでしょう。
それに対し て、旧暦、太陰歴というものは月のみちかけを基準とするもので、古代人にはむしろこのほうがわかりやすいものでした。
月が地球のまわりを一周するのは29日12時間44分ですから、太陰暦にも30日の「大の月」と29日の「小の月」とがあるのです そして原則として三年に一度ずつ「閏月」を設けて誤差を修正しています。
日本では明治五年から、正式に太陽暦が採用されました。つまりその年の12月3日が明治6年の1月1日となったのです。
ですから、それ以前の歴史的事件は、正確にいうと、いまの暦の日付とは若干ちがいがでてくるはずです。たとえば元禄15年12月14日に赤穂浪士が本所松坂町の吉良屋敷へ討ち入りしたといっても、その日は現在の12月14日ではないはずですが、何といっても何百年も前のことですから、新暦のこの日を「義士忌」ときめたとしても、目くじらをたてるには及びますまい。旧暦のことについては 農家が暦の専門家でもないかぎり、とくに注意する必要もないことですが、東洋占 法のほとんどすべてはこの太陰麿に基礎をおいているという事実だけはおぼえておいてください。この方位学もとうぜんそうなのです。
ところで、現在日本の暦でいちばん権威のあるのは、伊勢神宮から発行されている「神宮暦です。この暦は科学的にも権威のあるものですが、占いに利用するためにはいろいろ問題があります。とくに方位学の場合がそうなのです。
ここに、昭和57、58年の暦をあげておきますから、いちおう目をとおしてください。方位学では年月だけではなく、一日一日に九星をあてはめなければならないのですが、その一覧表といえるようなものです。
58年は6月4日までは、一白、二黒というように、九星は数のふえる方向に進みます。そして、4日と5日は九紫がつづき、その後は、八白、七赤というように九星は数の逆順に進行します。12月1、2日の両日はどちらも一白、その後はまた数字の順に進みます。これを「陰遁」「賜遁」といいます。
どうしてこんな九星のあてはめかたをするかということは、方位学というより暦学の専門的な問題になりますから、くわしい説明は省略しますが古代人が一年を「陽の年」「陰の年」と二つに分けていた―つの証拠といえるでしょう。
たとえば「魏志倭人伝」などを見ていると、紀元三世紀ごろの日本人は、一年を二年と数えていたようですが、ここには現代の方位学的感覚とまったく同じではないとしても、この陰陽の感覚が存在しているのではないでしょうか。
ところで、問題はここにあります。暦の本質は市阪のどの暦もかわりはありませんが、どこから陰遁陽遁が起こるかというボイントについては、四つの流派がそれぞれの方針をたててゆずりません。
私は、この本の旧版では、その― つである阿部泰山流を採用しました。大部から成る個人全集の一巻である 萬年暦』にしたがって、一覧表を作成したのですが、発行後数年で、その表が市販の暦とはちがうという苦情がでてきました。
つまり陰遁陽遁がはじまる日の決定がちがうために、それから後の九星がちがってしまうのです。
当時、阿部氏はすでに故人となっておられ、その教えを直接うけたお方も見つかりませんでした。それで私は、この旧版をいちおう絶版とし、この問題にしぼって研究をつづけましたが、どうも阿部流の考え方でつづけるのは若干問題があるようです。
そのために、この改訂版では巻末の一覧表を省き、九星は市販の暦にしたがっていただく方針をとりました。
それではどの暦がもとも権威があるかということですが、ちかぢか、易型高島嘉右衛門の衣鉢を継ぐ、三世高島呑象氏(現在神戸大丸デバートが本拠)の正統高島暦が発行される予定と聞いていますし、その後はこの「正統暦」を参照なさるのがいいだろうと思います。
(本ブログでは、「暦日大鑑」の資料に基づいて、暦を掲示しています。今のところ、「暦日大鑑」と本邦で出版される暦との間に、齟齬はありません。)
◎出典 「改定方位学入門」高木彬光著 カッパブックス及びブログ作者の収集データーによる◎