随想 養老孟司先生の講演を聴いて|やって、返ってきて、また、やる
随想 養老孟司先生の講演を聴いて
やって、返ってきて、また、やる

養老孟司先生の講演と、子どもたちの竹トンボ
2026年10月23日(金) | 随想 | 思索
養老孟司先生の講演の音声を聴きました。十五分ほどの短いものですが、聴き終えてから、しばらく考え込んでしまいました。いま私が子どもたちと向き合いながら感じていることに、まっすぐ答えてくれる話だったからです。
うつるのは「形」
先生は冒頭で、こう言われます。教育でうつるのは形であって、中身ではない、と。
子どもを叱る親がいると、子どもは何を叱られたかは覚えていない。覚えているのは「親父が怒鳴っていた」ということだけです。その証拠に、次の日も同じことをしている。そしてその子が親になると、たぶん自分の子どもを同じように叱る。中身は伝わらないのに、叱るという形は伝わるわけです。
政治のことで喧嘩ばかりしている親子の話も出てきます。父親と息子の支持する党は正反対なのに、先生は「そっくりだ」と言う。政治の話を家の中に持ち込んで、平気で喧嘩するところが同じだからです。
解剖学者として、動かない「入れ物」を長年見てきた人の言葉だと思うと、重みがあります。
五感が放っておかれている
話は、人がどうやって学ぶかに移ります。先生は脳をコンピューターになぞらえます。入力は五感で、出力は運動です。しゃべるのも書くのも運動で、筋肉が止まれば人は何ひとつ外へ出せません。
そのうえで先生は、今いちばん放っておかれているのが五感だと言います。都会の建物はコンクリートで、触る気がしない。ぶつかれば痛いし、冬は冷たく、夏は熱い。すべての建物が「触るな」と言っている。茶碗をコンクリートで作らないのは、触って気持ちが悪いからです。先生は子どものころ、お寺の欄干を走り回って遊んだそうです。
学習とは、ぐるぐる回ること
講演の芯は、ここからです。
赤ちゃんがハイハイをすると、一歩進むたびに見えるものが大きくなります。でも、それは同じものです。遠くの猫も、近くの猫も猫です。それを何度も繰り返しているうちに、脳の中にひとりでに「比例」のようなルールができていく。中学校で教わる前に、体はもう知っているのです。
自分で何かをする。その結果が感覚から返ってくる。それを受けて、またやってみる。先生は、この輪を何度も回すことが学習だと言います。一回では足りません。繰り返し、繰り返しです。
体の動かない子どもの話もありました。かわいそうだからと寝かせておくと、言葉が育たない。そこで体を少し持ち上げて、自分でハイハイができるようにしてあげると、間もなく言葉が出てくる。動いて、返ってくる輪が回り始めるからです。
今のコンピューターのディープラーニングも同じことだ、と先生はさらりと言われます。
文武両道と知行合一
昔の人はこれを「文」と「武」と呼んだ、と先生は続けます。入ってくる方が文、出ていく方が武です。
文武両道というと、午前中は座敷で書物を読み、午後は道場で竹刀を振る、と考えがちです。それでは入ることと出ることが分かれてしまう。陽明学の「知行合一」も、本来はこの輪のことではないか。知ることと行うことが、ぐるぐる回って一つになる。
だから、この学習は一生続きます。年をとって分かってくることがあるのは、そのためだ、と。
町田の教室で
いま、町田で小学生に算数を教えています。教えていて感じるのは、子どもたちを取り巻く教育の現場の荒みです。
二言目には「面倒くさい」「面白くない」という言葉が返ってきます。初めは怠けているのかと思いました。けれど先生の話を聴いて、考えが変わりました。面白さは、手を動かして何かが返ってきたときに初めて生まれるものです。やる前から面白いことは、あまりありません。「やってみたら面白かった」という経験が少なければ、やる前に「面白くない」と言うしかないのでしょう。
原因の一つは、自然に触れる機会が圧倒的に減ったことだと私は思っています。石を投げれば落ちる。虫をつかめば逃げる。泥をこねれば形が残る。自然の中では、やったことの結果がごまかしなく返ってきます。その輪を回したことのない子が、頭でっかちの大人の形をうつして育っていく。将来が心配になります。
府中の町ゼミで
先日、府中で子ども向けの町ゼミを開きました。カッターナイフで鉛筆を削ることから始めて、竹トンボと篠竹テッポウを作り、的あてをして、最後はみんなで歌いました。
子どもたちの顔は、教室で見る顔とまるで違いました。力を入れすぎれば芯が折れる。削り方が悪ければ竹トンボは飛ばない。やり直して、飛んだ瞬間に歓声が上がる。誰も「面倒くさい」とは言いませんでした。
そのとき確信しました。けがを恐れて刃物を遠ざけ、子どもが鉛筆を削らなくなったことの弊害は、思っていたよりずっと大きい。鉛筆そのものが教室から消えつつある今、小さな刃物で小さく失敗する機会は、ほとんど残っていません。
デジタル教科書のこと
2030年度から、デジタル教科書が正式な教科書になります。紙のみ、デジタルのみ、両方の併用の三つから、教育委員会などが選ぶ形です。
一方、学校のデジタル化で先を行っていた北欧のスウェーデンは、逆の道を歩み始めました。読解力の落ち込みや、深く読む力・手で書く力の衰えへの懸念から、2023年に方針を改め、紙の教科書と手書きの学習を教室に戻しています。生徒一人ひとりが、教科ごとに紙の教科書を一冊ずつ手にできるようにする、というのです。
デジタルの読み上げや拡大で助かる子がいるのも確かです。私も、デジタルそのものを否定するつもりはありません。けれど、ページをめくり、指でたどり、余白に書き込む。そうした体を通した読み方の大切さは、軽く見るべきではないと思います。養老先生の言葉を借りれば、本を読むことも、手と目と体を使う輪の一つだからです。
日本でも、国の指針の素案は紙を中心にした併用を基本とし、小学4年生以下にはデジタルだけの教科書を認めない方針だそうです。賢明な判断だと思います。そのうえで訴えたいのは、デジタル教科書を使うなら、何に、どれだけ、どう使うのかを、現場でしっかり考えてほしいということです。導入すること自体を目的にしてはいけません。
かく言う私も、毎日デジタルにどっぷりです。これはこれで問題で、子どもたちは大人のその形もうつしていくのでしょう。
希望は、手応えから
将来に希望を持ちにくい時代です。子どもたちも、希望を見いだせずにいるように見えます。
けれど、子どもにとっての希望は、遠い将来の明るい見通しから生まれるのではないと思います。「やったら、できた」という小さな手応えの積み重ねから育つのです。竹トンボが初めて空に上がったときの、あの顔のように。
その輪を一緒に回すことなら、私たち大人にもできます。算数の一問でも、竹トンボ一本でも。
やって、返ってきて、また、やる。
◆ 出典
・熊本日日新聞(共同通信)|「紙・デジタル併用」基本の素案 デジタル教科書、構成は紙中心(2026年10月19日)
・ギズモード・ジャパン|スウェーデン、紙の教科書へ回帰(2026年4月)
・ITmedia ビジネスオンライン|「デジタル化で学力低下」は本当か? スウェーデンの”教育アナログ回帰”政策を読み解く
・熊本日日新聞(共同通信)|「紙・デジタル併用」基本の素案 デジタル教科書、構成は紙中心(2026年10月19日)
・ギズモード・ジャパン|スウェーデン、紙の教科書へ回帰(2026年4月)
・ITmedia ビジネスオンライン|「デジタル化で学力低下」は本当か? スウェーデンの”教育アナログ回帰”政策を読み解く
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