第六章・つなぐ時代 連載第百五十二話 能古島の早春
福岡は、自分の好きな町の一つである。
玄界灘の海の幸があった。筑紫平野の米があった。野菜も果物も、あふれるばかりに並んでいた。少し足を延ばせば温泉があった。土地が豊かだということが、暮らしてみるとよく分かる。食卓に並ぶものが違うのである。
住んだのは三年弱であった。振り返ってみると、彼と妻にとってのあの三年は、どこか小旅行のようなものだったのかもしれない。よその土地に腰を下ろして、その土地のものを食べ、その土地の空気を吸って、また戻ってきた。
ただ、それは大人の勘定である。子どもたちにとってはどうであったか。大変な記憶ばかりであったかもしれない、と今になって思う。
長男は中学一年で、福岡の中学校に通いはじめた。そこでまず課されたのが、夜行登山であった。学校の行事として毎年やっていたものなのか、その年だけのものであったのか、彼は知らない。とにかく夜通し山を歩かされて、帰ってきた息子は、えらい目に遭った、と言った。とても寒くて、きつい一日だったらしい。転校してきて早々である。父親としては、笑うわけにもいかなかった。
長女は同じ中学で、弁論大会に出た。何を論じたのか、正確には思い出せない。生徒を縛る校則のことであったような気もするし、まったく別のことであったような気もする。ただ、納得のいかないものに対して、人前で正面から異を唱える子であった、ということだけは覚えている。
頭のいい子でもあった。地元でも名の通った高校への進学が決まっていた。ところが、東京へ戻ることになった。娘は結局その学校へ通うことなく、東京の高校へ編入することになる。あれをどう受け止めたのか、聞いたことがない。三年弱という時間は、大人には短いが、十代の途中にいる者にとっては、そういう短さではないのだろう。
次男は幼く、自由奔放に遊びまわっていた。黙っていると家を飛び出している。どこへ行ったかと探すと、小学校のほうへ向かって、一人で歩いているのである。学校が好きだったようだ。あの年頃で学校が好きだというのは、なかなか結構なことである。
次女は、福岡で生まれた。
ある日、彼はその末の娘を背中に負って、自転車で能古島へ出かけた。妻も一緒であった。渡し船に自転車ごと乗り込んで、島へ渡り、二人並んで走った。
早春であったと思う。海のにおいと、まだ少し冷たい風と、のどかな島の風景。急ぐ用事は何もなかった。ただ走って、ただ眺めて、また船に乗って帰ってきた。
背中の赤ん坊は、あの景色の中に、何を見ていたのだろう。
むろん、覚えているはずがない。覚えていないことのほうが、人生には多い。それでも、あの日あの子は確かにそこにいて、確かにあの海を見ていた。見た本人が忘れてしまった景色を、背負っていた親のほうが覚えている。そういうことが起こる。
歳月を経た今、振り返って、思う。
あの三年弱を、自分は小旅行のようだったと書いた。だが子どもたちにとっては、旅ではなく、生活そのものであった。夜通し歩かされた寒さも、通うはずだった学校へ通えなかったことも、それぞれの体に残ったはずである。親というものは、自分の物差しで子どもの時間を測ってしまう。玄界灘の魚がうまかった、温泉がよかった、と語る同じ三年を、子どもたちはまったく別の三年として生きていた。そのことに気づくのに、ずいぶんと長い年月がかかった。
生かされて、今を、存在する。
渡し船に自転車を積んで、妻と二人、背に幼子を負って走った、あの早春の能古島の風を、今も、自分は、確かに、覚えている。

