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第三章・世界の時代 連載第六十六話 しこり

第三章・世界の時代 連載第六十六話 しこり

第 三 章 ・ 世 界 の 時 代
第 六 十 六 話

しこり

― グ ラ フ で 見 つ け た 、 命 の 尽 き る と き ―

多摩の家の食卓は、二人の毎日に、すっかり馴染んでいた。

朝、出勤前に、二人で朝食を取る。夜、帰ってきて、二人で夕食を取る。新婚旅行から戻った頃の、まだ慣れない感覚は、いつの間にか、当たり前の風景に変わっていた。妻の作る朝食の匂いが、玄関を出る前の自分の背中に、いつも届いていた。夜、家の鍵を開ける時には、部屋の中の灯りが、もう先に灯っていた。一人で食卓に着いていた以前の生活が、半分、もう思い出せないくらいに、遠くなっていた。

そして、ある冬の日に、長男が生まれた。

昭和五十八年の一月——多摩の家に、新しい命が一つ、加わった。男の子だった。最初に妻がつけた名前は、健慈、と書いた。大きく、健康に、そして優しく育ってほしい、という願いを、妻が一字一字、考えてつけた名前だった。出産のあと、産院のベッドに横たわった妻が、その小さな顔をじっと見ていた表情を、自分は今も覚えている。母になった妻の顔は、それまでの妻の顔とは、また違う種類の静けさを湛えていた。柏のご両親も、駆けつけてくださった。多摩の家には、ベビーベッドと、白い肌着の山と、若い両親の少しぎこちない手つきが、毎日入り混じって、にぎやかに動いていた。

◇ ◇ ◇

本社のフロアの仕事と、家の食卓の往復の中で、自分は、何か新しい勉強を始めようと思っていた。

中近東部の仕事は、日々の慌ただしさはあったが、それだけでは、自分の中の何かが、少し物足りなくなっていた。当時、サラリーマン向けに、各分野の著名人を毎週のように招いて、講演会を開いている組織があった。会員になれば、毎週の講演を聴けるという仕組みだった。仕事の合間に毎週通うのは、現実には難しかった。それで、その組織が、講演の内容をカセットテープに吹き込んで、希望者に頒布する仕組みも持っていた。自分は、そのテープを、定期的に取り寄せることにした。

通勤途上の電車の中が、自分の聴講の場所になった。

朝、家を出てから本社に着くまでの間、ヘッドフォンの中で、いろいろな分野の専門家の声が、自分に話しかけてきた。経済の話、政治の話、技術の話、海外情勢の話。テープの中の声は、講演会場の静けさと、聴衆の咳払いと、講師の言葉の余白までを、そのまま運んできた。電車の窓の外を流れていく景色と、テープの中の声が、自分の耳の中で、毎朝交差していた。

ある日、一年前の講演テープが、自分の手元に届いた。

テーマは、為替相場の予想、というものだった。為替の動きを、ある独自の方法で予測する、という講演だった。聴き始めて、自分は、ふと、ある思いつきをした。一年前の講演である。だとすれば、その講演で予測されていた一年間の為替の動きと、その後実際に起きた為替の動きを、突き合わせてみることができる、はずだった。会社の資料室にも、為替の記録は残っていた。当時の自分は、輸出の現場にいたから、為替の動きには、毎日の仕事の中で触れていた。

突き合わせてみて、自分は、息が止まりそうになった。

テープの中の予測は、その後の為替相場の動きと、ほぼぴったりと一致していた。時間軸も、金額も、何か月先のいつ頃にこのくらいの水準まで動く、という細部までが、現実の動きとほぼ重なっていた。普通であれば、こんなことは、あり得ない。為替相場というものは、世界中の様々な要因が絡み合って動いていて、誰にも先のことなど分からない、というのが、当時の常識だった。それが、何故、一年前の講演で、ここまで正確に予測できたのか——自分の中の何かが、その不思議さに、強く揺さぶられた。

◇ ◇ ◇

自分は、その組織の事務局に、問い合わせの電話をかけた。

講演をされた先生のお名前は、テープの冒頭で告げられていた。牧正人史先生、というお名前だった。牧先生のオフィスがどちらにあるのか、教えていただけないでしょうか——電話の向こうの担当の方は、少し意外そうな声で応じてくださった。事務局として連絡先を勝手にお教えするわけにはいかないが、先生にお問い合わせの旨を伝えてから、改めてご連絡します——という、丁寧な対応だった。数日後、先生のオフィスの連絡先を、教えていただいた。自分は、すぐに先生のオフィスに電話をかけ、お会いしたい旨をお伝えした。

先生のオフィスは、こぢんまりとした、しかし整然とした事務所だった。

部屋の隅には、大きな機械が一台、置かれていた。当時、オフコン、と呼ばれていた、業務用のコンピュータだった。今のパソコンに比べれば、一回り大きく、表示は文字主体の、簡素なものだったが、当時としては、企業の事務処理を担う、しっかりした性能の機械だった。先生は、五十代の半ばくらいの、落ち着いたお声の方だった。出された名刺には、研究所の名前が記されていた。先生は、まず、自分が為替の予測テープに驚いて訪ねてきた経緯を、静かに聞いてくださった。それから、ご自身の研究の輪郭を、ゆっくりと話してくださった。

先生は、それを「マシレ予測」と呼んでおられた。

人の名前、組織の名前、国の名前——固有名詞には、それぞれ固有の波動のようなものがあって、その波動を数値化して時系列に並べると、その人や組織の運勢の流れが、グラフとして見えてくる、というのが、先生のお考えだった。為替相場も、米ドル、円、ポンドといった通貨の名前を、固有名詞として扱えば、同じように予測できる、というのが、一年前の講演の中身だった。先生は、長年の研究の中で、独自のソフトを、ご自身で書き上げておられた。そのソフトを、目の前のオフコンで動かしておられた。

先生は、技術は国のために使うべきだと考えておられた。当時、福田赳夫先生や、田中龍夫先生といった、自民党の重鎮の方々のお手元にも、先生のグラフは届けられていた。通産省の高官にも、大手企業の社長や会長の方々にも、先生は、経済の流れの予測情報を、定期的にお流ししておられた。だから、基本的には、個人の人生についてグラフをお出しすることは、しないことにしておられる、ともおっしゃった。自分は、その話を、ただただ畏れ入って伺っていた。一介のサラリーマンの自分が、こんな先生のお時間をいただいてよかったのだろうか——そういう恐縮の気持ちが、その時の自分の中にあった。

ところが、先生は、思いがけないことをおっしゃった。

「わざわざここまで足を運んでくださったのですから、特別に、あなたとご家族のグラフを、お出ししましょう」——先生は、そう静かに言ってくださった。有料です、と先生はおっしゃったが、料金については、自分は、二つ返事で承諾した。あの予測テープの一致を、実際に経験させていただいた以上、自分の家族のグラフも、ぜひ拝見したかった。先生は、机に向かわれ、オフコンの前に座られた。キーボードを、ゆっくりと、しかし確かな手つきで叩かれた。機械が、低い音を立てて、計算を始めた。プリンタが、紙を一枚ずつ、ゆっくりと吐き出していった。

◇ ◇ ◇

自分のグラフは、決して、明るい形をしていなかった。

線の上下を指でなぞりながら、先生は、ご自身の解説を加えてくださった。自分は、その時、思わず一つのことを口にした。自分は、子供の頃から、何かと艱難辛苦に遭うことが多かった。父母に苦労をかけてきた負い目もある。学業も、思うに任せないことが多かった。社会人になってからも、自分の不器用さで、辛い目に遭ってばかりいるような気がする——半ば独り言のように、自分は、先生の前で、そう打ち明けていた。

先生は、自分の名前を、もう一度、紙の上に書き直された。

それから、画数を一つ一つ確認しながら、ある一つの数を、丸で囲まれた。「二十八画です」と、先生は静かにおっしゃった。二十八画は、姓名科学の中で、すべての艱難辛苦を呼び寄せるとされる、最も厳しい字画のひとつなのだ——先生は、そう続けられた。先生のお言葉に、自分は、しばらく返す言葉がなかった。それまでの自分の半生で、辛い思いをしてきた一つ一つが、自分の中で、静かに腑に落ちていった。原因は、自分の能力でも、努力の不足でもなかった。名前の中の、たった一つの画数が、自分の人生に、それだけの重みを及ぼしていた——という説明が、なぜか、自分には、すんなりと入ってきた。

続いて、妻のグラフが、プリンタから出てきた。

先生は、その紙を、両手でそっと持ち上げて、しばらくじっとご覧になっていた。それから、机の上に静かに置いて、自分のほうを見られた。先生のお顔の表情が、それまでとは、少し変わっていた。

「奥様の健康が、いずれ、きわめて厳しい状態になります」と、先生は、静かに、しかしはっきりと、おっしゃった。

グラフの線が、ある時期から、急に下方に折れ曲がっていた。先生は、その時期がいつ頃に当たるかを、月の単位で、具体的にお示しくださった。何が原因とも、先生は、はっきりとは言われなかった。ただ、健康面のグラフが、これだけ深く落ち込むのは、放っておくと、相当に厳しいことになる——という意味のことを、繰り返しおっしゃった。早めに、医師に相談されたほうがよい。一度、人間ドックに入られたほうがよい——先生は、そうもおっしゃった。

自分は、その時、何と返事をしたのか、もう記憶が定かでない。

ただ、自分の中で、何か重い物が、ゆっくりと底のほうに沈んでいく感覚があった。占いというものを、自分は、それまで、愚の骨頂と思って生きてきた。非科学的なものは信じない、というのが、若い頃からの自分の立場だった。しかし、目の前の先生は、占いの先生というよりは、研究者だった。為替相場の予測の一致は、自分自身が、この目で確かめた事実だった。先生のお言葉を、頭から否定する根拠は、自分の中には、もう、なかった。

◇ ◇ ◇

家に帰って、妻にどう伝えたかは、もう覚えていない。

グラフのことを、そのまま見せたのか、見せなかったのか。先生のお言葉を、どこまで伝えて、どこまで伝えなかったのか。半世紀近く経った今となっては、その時の自分の口から出た具体的な言葉は、もう、思い出せない。ただ、二人で人間ドックに入ろう——という話に、自然と落ち着いた。当時、若い夫婦が一緒に人間ドックに入る、というのは、まだ、それほど一般的なことではなかった。それでも、妻は、特に渋ることもなく、応じてくれた。長男の健慈が、まだ一歳にならない頃のことだった。

昭和五十八年の十二月二十日、二人で、人間ドックに行った。

朝早くに、検診の施設に着いた。受付を済ませて、それぞれの検査室に分かれた。血液検査、心電図、レントゲン、問診——一つずつ、淡々と進んでいった。妻のほうが、自分よりも、検査の項目が多かった。婦人科系の検査もあったので、その分、時間がかかっていた。自分は、自分の検査がすべて終わった後、待合室で、妻が出てくるのを待っていた。窓の外には、冬の弱い日差しが、白く差し込んでいた。

結果説明の部屋に、二人で呼ばれた。

担当の医師は、妻のカルテと、いくつかのレントゲン写真を、机の上に並べておられた。型どおりの説明が、しばらく続いた。血圧は問題ない、血液の数値も大きな問題はない、心電図も問題ない——一つずつ、医師の指が、項目を辿っていった。それから、医師の指が、ある一点で止まった。

「奥様の胸に、しこりが認められます」と、医師は、淡々とおっしゃった。

触診の所見と、超音波の画像と、両方からの確認だった。大きさはまだ小さい。良性の可能性も、もちろんある。ただ、念のため、専門の医療機関で精密検査を受けられたほうがよい——医師の言葉は、その種の場面の医師としての、ごく標準的な口調だった。妻は、隣の席で、姿勢を崩さず、医師の説明をじっと聞いていた。自分は、机の上のレントゲン写真の白い影を、ぼんやりと見ていた。先生のオフコンが描き出していたグラフの、あの下方に折れ曲がった線が、目の前のレントゲン写真の小さな影と、確かに一つに重なっていた。机上の理論が、生身の人間の体を、すでに支配し始めていた。

結果説明の部屋を出たあと、妻が、廊下で、一度だけ立ち止まった。

妻は、自分のほうを向いて、静かに微笑んだ。それから、ぽつりと言った。「健慈君が大きくなるまで、生きなければいけませんね」——その短い一言を、妻は、特に力を入れずに、ごく自然に口にした。母として、もう既に立っている人の言葉だった。当時の自分は、その言葉の重みを、半分くらいしか、受け取れていなかったかもしれない。半世紀近く経った今、その言葉を、繰り返し、自分の中で噛みしめている。

◇ ◇ ◇

その夜、多摩の家に帰って、二人は、いつもと変わらない夕食を取った。

健慈は、もう寝かしつけられていた。妻は、台所で、いつもと同じ手つきで、味噌汁を椀に注いでいた。自分は、ちゃぶ台の前に座って、妻の背中を見ていた。机上の理論が、生身の人間の体を支配する——若い自分は、その日、それを骨で知った。占いを愚の骨頂と思っていた頭の中の常識は、もう、立つ場所がなくなっていた。それは、頭で受け取るには重すぎる種類の知だった。身体のほうが、先に分かってしまったのだった。

後に、自分は、家族全員の名前を組み直すことになる。

名前には、それぞれ、引き寄せる力がある——というのが、牧先生のお考えの中の、もう一つの柱だった。同じ波動を持つ名前は、類は友を呼ぶ形で、一つの場所に集まることがある。航空機事故の搭乗者名簿などを丹念に調べると、そのような兆候が、明確に見えてくる、と先生はおっしゃっていた。妻は、健康面に厳しい線を抱えていた。自分は、二十八画という艱難辛苦の字画を抱えていた。家の中の二人とも、それぞれの形で、つらい場の引力の中にいた。

愛する妻を救えるなら、何でもよかった。

妻のがんが、後にはっきりとした形で確かめられた時、自分は、子も、自分も、両親までを含めた家族全員の名前を、変えようとした。間に合うかどうか、ぎりぎりの段階だった。父にも母にも、相談した。一家全員の名前を組み直す、というのは、ふつうに考えれば、突拍子もない話だったろうと思う。それでも、両親は、息子の話を、最後まで聞いてくださった。その後の経緯は、また別の章で、書く。

第三章「世界の時代」を、この一話で、静かに閉じる。

本社のフロアに着いた若い男が、仕事の風景の中を歩き、失恋と寂しさの底を一度通り、運命の出会いを得て、新婚旅行の輝きを通り抜けて、そして、机上の理論が、生身の人間の体を支配する——その厳しい順序を、骨で知るところまで来た。占いを愚の骨頂と思っていた若い男が、半世紀をかけて、姓名科学を仕事にすることになる。その出発点は、通勤電車の中のカセットテープと、牧先生の事務所のオフコンの音と、人間ドックの白い部屋と、廊下で立ち止まった妻の口から出たひとつの短い言葉に、すべて含まれていた。

世界は、机上の理論と、生身の身体の、二つの層からできていた。

そして、机上の理論のほうが、生身の身体を、深いところで支配していた。若い自分が、その日骨で知ったのは、この順序のことだった。それを骨で知ってしまった人間が、その後の人生を、どう生きていくか——その長い道のりは、ここから、別の章として、また始まる。

第 三 章 ・ 世 界 の 時 代 了
(つづく) R080513

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