政治を動かすものは、その時代を流れている思想です。昭和の時代の開始(一九二六年)と共に日本を襲ったのは世界大不況の嵐でした。企業の倒産は相次ぎ、町には失業者が溢れました。深刻な農業不況は農家の娘の人身売買を産んだのでした。
マルクスのいう資本主義の矛盾の激化、末期的症状との言葉が人々の心を捕えました。
日本共産党は一九二二(大正十一)年六月に結成されています。コミンテルンの指示と支援によるものです。世相を捉えて非合法革命活動を開始しました。当時では、最左翼と目されていた「労働農民党」や「日本労働組合評議会」そして「全日本無産青年同盟」の三団体も日本共産党の指導下に置かれるようになったのです。
日本共産党の闘争方針は、いわゆる「二七テーゼ」(一九二七テーゼ)と呼ばれるコミンテルンの指示に基づくものでした。国際資本主義の現段階を、最末期の国際金融資本支配下にある独占資本主義の崩壊過程にあると規定し、日本資本主義も崩壊過程にあり、崩壊を支えているのが「天皇制度」にあるとし、「天皇制度打倒」を中心スローガンに掲げプロレタリア革命に直接突入せよ、というものでした。
これに対応するために内務省は、一九二八(昭和三)年三月十五日に一斉検挙に踏み切りました。世に言う三・一五事件です。起訴収容された者五百三十名、取り調べを受けた者は五千数百余名に上り国民は衝撃を受けました。
中でも東京・京都の帝大をはじめ、大学・高校など「赤い学生」の輩出は衝撃的でした。
この事件に見られるようにマルクス主義旋風は、一世を風靡したのでした。これは日本だけの現象ではありませんでした。ドイツ・フランス・イギリスでも、そしてアメリカでも、マルクス主義は知識人社会を支配した観を呈したのです。
深まりゆく世界不況はマルクスが説くように、資本主義の末期症状なのだという世相が説得力をもち一種の末法思想のように、青年たちの心を捉えていきました。
ロシア革命は一九一七(大正六)年ですが、翌年には東大に「新人会」が結成され、これを契機に全国の大学・高校などに「社会科学研究会」が結成されていきました。一九二四(大正十三)年には全国組織「学生社会科学連合会」(学連)が組織されるに至りました。
一九三五(昭和十)年の頃までに共産党関係だけで警察の取り調べを受けた者の数は十万人を超え、「転向」を声明した者の数は六万人を下らないと言われています(例えば『大東亜戦争とスターリンの謀略』三田村武夫著・八十六頁)。
ここで注目しておくべきことは、一九二八(昭和三)年の第六回と第七回(一九三五・昭和十年)の二回のコミンテルン大会の決定です。特に七回の「人民戦線戦術」の確認には注意すべきです。日本の運命と深い関わりのある決定だからです。「人民戦線」というのは共産党は裸体を曝さないで、あらゆる社会組織の中に潜伏し、実権を握り革命準備とソ連擁護に努めよということです。以後、共産党員は社会の表面から姿を消しました。
これは日本だけの現象ではありません。コミンテルンの決定ですから、世界的に実行されました。アメリカでも日本と同じ現象が進行していました。軍や政府内部にコミンテルンの要員が潜み始めたのです。
この時代、二十歳前後の学生時代に、マルクス主義の洗礼を受けたマルキストは、一九三〇年代に入ると四十歳に達していました。官庁でも社会組織の中でも学卒者の彼らは要路に立つようになっていました。尾崎秀実は手記にあるように、大正十四年には自分は共産主義者になっていたと記しています。東大法学部を卒業した後、大学院を経て「朝日新聞」に入社してから、上海でゾルゲと握手した(コミンテルンの要員となった)のが昭和九年ですから、彼は三十三歳の中堅の幹部社員と遇されていたのです。同社を退職して、第一次近衛文麿内閣の嘱託(中国問題担当顧問)に就くのが昭和十三年七月です。以後は近衛内閣の最高ブレーンとして設けられた「朝食会」の中心として、この政治幕僚会議を第三次近衛内閣まで「主宰」してきたのでした。書記官長(現在の官房長官)は蔭の同志たる風見章でした。
ブレーン機関としての「 昭和研究会」のメンバーをあげます。
尾崎秀実、蠟山政道、風見章、岡崎三郎、堀江邑一、平貞蔵、牛場友彦……等々、「昭和研究会」事件としてすべての名前は明らかなのですが、紙幅の関係で省略します。
ただ風見章を書記官長に推したのは、陸軍省軍務局の梅津美治郎次官や柴山軍務課長であったことに注意しておきましょう。いわゆる政治軍人たちとコミンテルン要員たちとが密接な関係を有していたことは、重視されるべきです。
日本では社会主義は禁旬でしたが、「高度国防国家建設」は堂々たる正論でした。
二つの有名な法律が制定されました。「国家総動員法」と「電力国家管理法」です。社会主義と同じ計画経済は、この正論のもとで成立したものです。モデルはスターリンの第一次五ヵ年計画でした。この二つの法律に基づき、次のような政令も定められました。
国民職業能力申告令、従業者雇入制限令、国民徴用令、価格等統制令、総動貝物資使用収用令……もういいでしょう。一九三九(昭和十四)年だけでも、こんな法令が次々と制定されていったのです。
上海事変の形で、蒔介石が日本に戦争を挑んできました。蒔介石の目的は日本人の鏖殺(皆殺し)なのですから、日本の反撃は当然です。しかし前に述べたように、上海に設けられた罠での戦闘は無用でした。日本海軍は、支那軍の暗号を解読していましたから、敵の意図は分かっていたのです。ドイツ軍事顧問団のことも分かっていたのです。なぜあんな悪戦苦闘の罠に落ちたのか。分かっていたのは海軍だったからです。統一司令部のない日本軍の兵隊さんが哀しい。海軍が艦砲射撃の巨弾で罠を粉砕し、陸海空一体の速攻で首都南京を制圧し、迅速に撤退し日本軍の武威を示すという作戦構想(戦争計画)の能力が日本には無くなっていたのです。
統帥権は政府から独立し、陸軍と海軍はそれぞれに独立・分裂していたからたくさんの兵隊さんが戦死したのです。日本と蒋介石を噛み合わせるというコミンテルンの意図を体した尾崎秀実や風見章たちは、事変完遂を通して「高度国防国家建設」を願望する政治軍人たちと意気投合し、慮溝橋事件ごとき小競り合いにも過剰反応したのでした。
戦争を始めたのは支那です。大戦争を仕掛けたのも蒋介石です。拡大に応じた日本の内実の一部は、こうした次第でした。
『続日本人が知ってはならない歴史』若狭和朋著(2007年)
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