第三章・世界の時代 連載第六十三話 ひとつの夜
ひとつの夜
多摩の家の車庫に、チェリーX1は、まだあった。
本社に異動してから、平日の通勤には電車を使うようになっていた。村山時代に毎朝エンジンをかけていたチェリーX1は、休日に、たまに動かしてやる車として、車庫の中で静かに眠っていた。バッテリーが上がらないように、月に何度かはエンジンをかけて、近所を一周する。それくらいの付き合いが、本社時代のチェリーX1との関係になっていた。
その夜、自分は、何か月ぶりかに、車庫のチェリーX1のドアを開けた。
休日のいつもの近所の一周、ではなかった。一人の食卓を終えたあと、家にいては、自分の中の何かが、もう収まらなかった。家のなかの空気が、自分の寂しさを、どんどん濃くしていく。机の上のスタンプ台と判が、いつもと同じ場所にある——その当たり前の風景が、その夜は、なぜか、自分の息を詰まらせた。立ち上がって、玄関を出て、車庫のシャッターを上げた。
運転席に座ると、ハンドルの感触が、しばらく振りに、手のひらに戻ってきた。
電車という選択肢も、あった。
川崎の方角に、夜の電車で行くこともできた。それでも、自分が選んだのは、チェリーX1のハンドルだった。なぜそうしたのか、当時の自分は、深く考えていなかったと思う。電車の中で、誰かと顔を合わせるのが、ただ嫌だった。一人で、誰の視線も浴びずに、夜の道を走りたかった。それくらいの理由だった。
当時の自分は、車の名前にそれほど意味を見出していなかった。
「チェリー」は、日産の車種の一つの名前にすぎなかった。村山の構内で、自分が選んで手に入れた、若い男の最初の単独行のための車だった。「チェリー」という名前と、その夜自分が向かおうとしていた場所との間に、何か特別な符合があるかもしれない、などとは、当時の自分は、毛ほども考えていなかった。ただ、自分の足の代わりになる車だった。それだけだった。
半世紀後の今、振り返ってみれば、不思議な組み合わせだったと思う。
「チェリー」という、桜の名を持つ車で、自分は、若い男の関門の一つに向かっていた。その符合に当時の自分が気づいていたら、たぶん、ハンドルを握る手が、もう少し止まったかもしれない。気づかなかった。だから、進めた。当時の鈍さが、その夜の自分を、ある一つの場所まで運んだ——そう、今は思う。
多摩から川崎までの夜の道を、自分はチェリーX1で走った。
街灯と街灯のあいだの暗い区間を、ヘッドライトの光が切り開いていく。対向車のヘッドライトが、目の前を流れて消えていく。自分のハンドルを握る手は、固かった。アクセルを踏みすぎないように、自分で気をつけていた。冷静さを保とうとしていた、というより、自分の中の動揺を、ハンドルの動きに出さないように、必死で抑え込んでいた、という方が近かった。
信号で止まるたびに、自分の中で、何かが揺れた。
引き返すか。進むか。赤信号の長い数十秒のあいだ、自分は、両方の選択肢を、頭の中で何度もひっくり返していた。引き返せば、家に戻って、また机の上のスタンプ台と判を見ることになる。あの誰もいない家の空気の中に、もう一度沈み込むことになる。それは、その夜の自分には、もう耐えられそうになかった。
進む方を、自分は選んだ。
青信号に変わるたびに、アクセルを踏み込んだ。引き返さなかった。当時の自分は、自分の選択を、深く検証する余裕はなかった。ただ、家に戻ることだけが嫌だった。家でない、どこかに辿り着くことだけが、その夜の唯一の方角だった。チェリーX1のヘッドライトが、その方角を、淡々と照らし続けていた。
川崎の街には、若い男が一人で辿り着く一帯があった。
その存在を、自分が知っていたのは、会社の同僚たちの話の端々から、なんとなく耳に入っていたからだった。具体的に誰から聞いた、という記憶は、もう曖昧である。フロアの片隅の世間話の中で、ぽつりぽつりと出てくる地名を、自分は無意識のうちに頭の中に蓄えていた。蓄えていたものが、その夜、自分の足を、その方角に向かわせていた。
街に着いた。
適当な場所に車を止めた。エンジンを切ると、車内は急に静かになった。耳に届くのは、街の遠い喧騒だけだった。窓の外には、見慣れない種類の灯りが、いくつも立ち並んでいた。降りるか、降りないか——その決断の前に、自分はしばらく、ハンドルに手を置いたまま、座席で動けないでいた。
ドアを開けたとき、夜の空気が、車内に流れ込んできた。
街の匂いが、これまで自分が知っている街の匂いとは、少し違っていた。空気の中に、何か、別の種類の温度があった。自分は、その温度の中に、足を踏み入れた。あとは、足の向くままに、ゆっくりと歩いた。歩きながら、時々、自分が今ここにいることが、信じられない気持ちが起きた。それでも、足は止まらなかった。
その夜のことを、ここでは詳しく書かない。
場面そのものを、紙の上で再現することに、意味があるとは思えない。自分が伝えたいのは、場面の中身ではなく、その夜が、若い自分の中に残したものの輪郭である。輪郭だけを、抑えた筆致で、ここに書き留める。
一人の女性と、一晩を共にした。
名前は、書かない。容姿も、書かない。彼女もまた、それぞれの事情で、その夜の街にいた、一人の生身の人間だった——そのことだけは、半世紀経った今も、自分の中で確かに残っている。彼女を、物として描くことはしない。聖性に祭り上げることもしない。一晩、自分と同じ夜の中にいた、一人の人間として、ただ、その輪郭を尊重する。それが、書く側の最低限の礼儀だと、自分は思っている。
ただ、それだけだった。
特別なことは、何も起こらなかった。劇的な変化も、激しい感情の動きも、なかった。ただ、その夜の数時間が、淡々と流れていった。寂しさは、その数時間のあいだに、消えはしなかった。形が、少しだけ、変わった気がした。それだけだった。
朝、街を出る前に、自分は、車のシートに座って、しばらくハンドルを握っていた。
エンジンをかける前の、静かな数分だった。窓の外の街は、夜の街とはまったく違う顔をしていた。朝の通勤の人たちが、足早に駅の方向に歩いていく。犬を散歩させる老人が、横断歩道を渡っていく。ごく普通の、朝の街だった。昨夜、自分が歩いた街と、今朝の街は、同じ場所であるはずなのに、まったく別の街のように見えた。
エンジンをかけて、チェリーX1を、多摩の方角に向けた。
帰りの道では、行きの道よりも、ハンドルが軽かった。空腹だったのか、疲れていたのか、何かが自分の中から軽くなっていたのか——よく分からなかった。一夜の前と後で、自分の中の何が変わって、何が変わらなかったのか、当時の自分には、整理する力がなかった。ただ、ハンドルを握って、家に向かって走り続けた。
多摩の家の車庫に、チェリーX1を戻した。
エンジンを切り、ドアを閉め、シャッターを下ろした。家の玄関に入ると、いつもと同じ匂いがした。机の上のスタンプ台と判が、いつもと同じ場所にあった。鏡の前で、自分の顔を、ちらりと見た。特に変わっていなかった。眠そうな、二十代後半の若い男の顔が、鏡の中にあった。
自分の中に、何かが、わずかに動いていた。
罪悪感はなかった。自慢の気持ちもなかった。ただ、「自分は、若い男の関門の一つを、自分なりのやり方で潜り抜けた」——という、ささやかな自覚があった。あの夜は、たぶん、自分のような不器用な独身の男が、いつかは通る種類の夜だったのだろう、と自分は思った。多くの男性が、それぞれの形で通り抜ける、関門のようなもの——それが、若い日のあの一夜の、自分の中での位置づけだった。
しかし、寂しさが消えていたわけではなかった。
家に戻った後の自分の中には、まだ、寂しさが残っていた。形が変わっただけだった。三輪さんへの届かなかった想いも、村山に置いてきたショムコちゃんへの言えなかった言葉も、自分が応えなかった生産班の女性の沈黙も——あの夜の数時間の中で、何かが解消されたわけではなかった。むしろ、それらの寂しさの輪郭が、もう少しだけ、自分の中ではっきりした気がした。
身体の触れ合いでは、埋まらないものがある——そのことを、自分は、その夜のあとで、骨で知った気がした。
七十三歳になった今でも、自分の中には、妙な飢餓感が残っている。
本当の恋愛経験が、決定的に不足したまま、ここまで来てしまったのではないか——そういう感覚が、人生のあちこちで、ふっと顔を出すことがある。妻と過ごした時間の中にも、その後の人生の中にも、満たされた瞬間は、もちろんあった。それでも、自分の魂の奥には、何か、まだ完全には落ち着いていない部分が、ずっと残っている。完璧にマッチする相手を、自分の魂は、たぶん、まだ探している。その探究は、若い日に始まって、今も止んでいない。
あの川崎の一夜は、その魂の探究の、最初の一段だったのかもしれない。
当時の自分は、何も気づいていなかった。ただ、寂しさから逃れたくて、家を出た。チェリーX1のハンドルを握って、夜の道を走った。一人の女性と、一晩を共にした。それが、自分の魂の歩みの一部だったとは、当時の自分には、想像もできなかった。半世紀後の今になって、ようやく、あの一夜の意味が、自分の中で言葉になりつつある。
「チェリー」という名の車で、川崎の夜の方角へ向かった——あの組み合わせの中に、若い男の魂の歩みの、最初の一段が刻まれていた。
桜の名を持つ車で、初めての夜の街に向かう。あの符合は、当時の自分には見えなかった。半世紀の距離を置いて、ようやく見える。誰かが意図して仕組んだものではない。ただ、人生の節目には、後から振り返って初めて見える、不思議な象徴が、自然と置かれていることがある。あの夜のチェリーX1は、自分の人生の中に、そういう象徴の一つとして、半世紀のあいだ、静かに残り続けていた。
魂が、本当の落ち着く相手を探す道は、あの夜から始まっていたのかもしれない。
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