乗鞍の蕎麦
その先輩の名前を、自分はもう覚えていない。
これは、書き残しておくのが少し気が引ける真実である。半世紀以上前のあの冬、自分を乗鞍まで連れて行ってくれたあの方の名前を、今、思い出そうとしても出てこない。出てこないままに、しかし、別のものははっきりと残っている。眼鏡をかけたすらっとした体格、三十代から四十代のあいだのあの落ち着き、そして——あの一椀の蕎麦の味。
名前は薄れ、味は残った。
人の記憶というのは、こういうふうにできている。本人にとってはおかしな話だが、長い時間が経つと、何が残り、何が消えるかは、自分では選べないらしい。名前のような大事な情報がすっぽり抜け落ちて、舌の上の感覚のような曖昧なものが、いつまでも消えずに残る。記憶が選んでいるのか、それとも、名前は別のもののために席を空けたのか——。
その方は、工務部の中で部品の発注を担当していたと思う。
部品計画係から渡される数字を受けて、海外の協力工場や国内の下請けに、実際の発注を投げる仕事である。日々、テレックスのキーを叩き、注文書の山と向き合い、納期と在庫のあいだで頭を回し続けていた。仕事の質には厳しい人だった。雑な書類を出せば、静かに突き返される。怒鳴るタイプではない。ただ、突き返された書類を見ると、自分のどこが甘かったかが、書き足された一行から自然にわかった。
そういう人だった。
普段の机では、口数も多くない。仕事の話以外で何かを話しかけられた覚えも、あまりない。それなのに、なぜか自分は、その方の前ではいつも背筋を伸ばしていた。優しさと厳しさが、同じ顔の中に共存している人だった。叱られた記憶はないのに、なんとなく、いいかげんなことができない。そういう種類の存在感を、その先輩は持っていた。
なぜ、自分が乗鞍に誘われたのかは、覚えていない。
特別に気に入られていたわけではない、と思う。何か仕事の上での貸し借りがあったわけでもない。ただ、ある日、ふと声をかけられた。冬に乗鞍に行くんだが、よかったら一緒に来ないか——そういう、軽い誘い方だったと思う。断る理由もなかったので、自分は素直に「はい」と返事をした。
あの「はい」も、また小さな約束だった。
小山課長の前で口にした「はい」と、この先輩の前で口にした「はい」。性格はまったく違う「はい」だが、振り返ってみれば、若い日の自分の人生は、こうした小さな「はい」で進路を決められていたのだと思う。
当日、先輩の車の助手席に座らせてもらった。
何の車だったかは、もう覚えていない。日産の何かだったような気もするし、そうでなかったような気もする。ハンドルを握っているのは先輩で、自分は隣の席に座って、フロントガラスの先の景色を眺めていた。中央自動車道を西へ。山が近づいてくるにつれて、空気が冷たく、澄んでくる。窓の外の景色が、町から、川から、山へと変わっていく。
車中の会話は、覚えていない。
仕事の話を少しはしたかもしれない。そうではない、世間話のようなものを少ししたかもしれない。長い沈黙の時間もあったように思うが、それは気詰まりな沈黙ではなかった。山道を走る車の中で、無理に話を作る必要のない種類の沈黙——大人と若者のあいだに、無言のまま流れる時間というものがあって、その時間の中で、自分は何かを少しずつ受け取っていた。
乗鞍のスキー場に着いたのは、たしかに冬の日だった。
山の白さ、空気の鋭さ、雪を踏む音、リフトの軋み——スキー場の細部は、もうぼんやりしている。当時の自分はスキーが特別に上手だったわけではない。先輩のほうも、競技選手のような滑りをするわけではなかったと思う。ただ、雪の山に二人で立ち、リフトに乗り、滑り、また昇り、また滑る——そういう一日を過ごした、ということだけが残っている。
滑り終えて、先輩が言った。
「これから、蕎麦を食いに行こう」
その一言で、車は再び山道を下り始めた。
スキー場から三十分ほど走ったか、もう少し短かったかもしれない。途中で、先輩は車を止めて、公衆電話から電話をかけた。蕎麦屋に予約の電話を入れているのだとわかった。今から向かう、何時何分頃に着く——そういうやりとりだったのだろう。
後で知ったことだが、その蕎麦屋は、電話で予約をしておくと、客の到着時間に合わせて蕎麦を打ち始めるという店だった。
手打ちの蕎麦は、打ってから時間が経つと味が落ちる。だから、客が席に着いた瞬間に、ちょうど打ち上がった蕎麦が出せるように、到着時間から逆算して仕込みを始める。そういう手間を、店の主人は当たり前のように引き受けていた。客の側も、その手間に応えるために、必ず予約を入れる。店と客のあいだで、ささやかな信頼関係が長年かけて積み上げられている——そういう店だった。
そういう店を知っているというだけで、人は知れる。
これは、若い自分があとで気づいたことである。蕎麦屋の選び方には、その人の生き方が出る。何百もある蕎麦屋の中から、電話予約で時間に合わせて打ってもらえるような店を選び、しかも自分の若い後輩をそこに連れていくと判断する人——その判断のひとつひとつに、その人の輪郭がある。先輩は、そういう輪郭を持った人だった。名前は忘れたが、その輪郭だけは、いまも消えない。
店に着くと、迷うことなく席に通された。
小さな店だった。木の柱、低い天井、土間の冷たい空気、そして奥から微かに伝わってくる、蕎麦を打つ音——。窓の外には、清流があった。乗鞍の山から流れ下る水である。冬の山の水は、見ているだけで指先が冷たくなる。澄んでいた。底まで透き通っていた。
その清流の水で、店の蕎麦は打たれていた。
そう知ったのは、たぶん、店の主人が一言、説明してくれたからだったと思う。あるいは、先輩がそう教えてくれたのかもしれない。記憶のその部分は、今ではもう曖昧である。ただ、運ばれてきた蕎麦の前に座ったとき、自分は窓の外の清流と、皿の上の蕎麦とが、地続きであることを、なぜかすでに知っていた。
蕎麦が出てきた。
細い、青みがかった、つやのある蕎麦だった。色も香りも、東京の町中で食べる蕎麦とは別物だった。割り箸で一筋つまみ上げ、つゆの中にくぐらせて、口に運ぶ。
そこで、時間が止まった。
大袈裟ではない。本当に、その瞬間、舌の上で世界が一度静まった。鮮烈な甘み、淡い苦み、清流のような切れ味、そして喉に落ちていく涼しさ。それまで自分が「蕎麦」と思っていたものは、いったい何だったのだろう、と若い頭の中で疑問符が立った。これが蕎麦か——というのが、最初に出てきた素朴な感想だった。
先輩は、何も言わずに、蕎麦を啜っていた。
向かいの席で、淡々と、しかしどこか誇らしげに、自分の蕎麦を食べていた。「どうだ、うまいだろう」とは言わなかった。そういう野暮なことを口にする人ではなかった。ただ、若い後輩を一度こういう場所に連れてきて、こういう一椀を食わせてやろう——そういう心づかいだけが、店の空気の中に静かに広がっていた。
あれから半世紀以上、自分はいろいろな土地でいろいろな蕎麦を食べてきた。
信州の名店、東京の老舗、出張先の地方の隠れた一軒——。それなりの蕎麦には、それなりの数を出会ってきたつもりである。しかし、あの乗鞍の一椀を超えるものに、いまだに出会っていない。これは、若い日の感受性が誇張した記憶ではない、と自分では思っている。あの蕎麦は、本当に、別格だった。
もちろん、若さの補正はあるかもしれない。
スキー場で体を動かしたあとの、空いた腹。冬の山の空気の中で冷えた感覚。職場の先輩に連れてきてもらった、ちょっとした非日常感。それらすべてが、あの蕎麦の味を底上げしていた可能性は否定できない。しかし、それを差し引いても、なお、あの蕎麦は別格だった。手打ちの技術、清流の水質、そして店主の客へのもてなしの全部が、あの一椀の中に集まっていた。
そして、それを自分に体験させてくれたのが、あの先輩だった。
先輩自身がその一椀を作ったわけではない。先輩自身がその店を始めたわけでもない。ただ、先輩はその店を知っていた。そして、若い自分を、その店に連れていく価値があると判断してくれた。それだけのことである。それだけのことなのだが、人の人生というのは、そういう「それだけのこと」の積み重ねでできている。
食事を終えて、また山道を下り、長い時間をかけて村山に戻った。
帰りの車の中も、たぶん多くは話さなかった。話さない時間の中で、自分の舌の奥にはまだ蕎麦の香りが残っていた。あの香りは、その夜寮で寝る前にも、まだ残っていたような気がする。
翌週から、職場ではまた普段通りの日々が始まった。
先輩はまた、テレックスのキーを叩き、注文書の山と向き合っていた。自分はまた、フォークリフトの仕様書を広げ、池田さんからの電話に泣かされていた。乗鞍の話を、職場で改めて口にすることはなかった。あれは、職場の中の話ではなく、職場の外の話である。職場の中で繰り返し語ってしまうと、あの一日の温度が、すり減ってしまう気がした。だから、心の中だけで反芻していた。
その先輩が、その後どうなったかも、自分は知らない。
転勤して別の工場に行ったか、退職したか、定年後どこかに移り住んだか——。連絡を取らなくなれば、人の消息というのは、案外簡単に途切れる。職場というのは、そこに居るあいだは毎日顔を合わせる近い存在でも、離れれば、それきりになることがほとんどである。それが、悲しいことなのか、自然なことなのかは、自分にはまだ判断がつかない。
それでも、あの一椀は、消えない。
名前を覚えていない先輩と、名前を覚えていない蕎麦屋と、名前を覚えていない清流と——名前のないものばかりが、自分の舌の奥に残っている。名前というのは、思っているほど大事なものではないのかもしれない。一椀の蕎麦と、それを共にした一人の年長者の輪郭——それさえあれば、半世紀の時間を越えて、記憶は生き残る。
蕎麦屋を選ぶ目を、その先輩から教わった。
教わった、と言っても、何か講釈を聞いたわけではない。ただ、一度、本物の店に連れて行ってもらった。それだけで、自分の中に「これが本物だ」という基準が一つ刻まれた。それ以降の人生で、何度も「これは違う」「これは惜しい」「これは近い」「これは超えない」と、舌が静かに判定してきた。判定の元になっているのは、いつもあの乗鞍の一椀である。
名前のない先輩、ありがとうございました——。
この一行を、半世紀以上経った今、こうして書き残しておく。届くか届かないかは、わからない。届かなくてもよい。書いた、ということだけが、自分の側の小さな清算である。
あの蕎麦の味は、まだ、自分の舌の奥にある。
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