連載:至誠の覚醒 第二十二話 物が捨てられない
物が捨てられない。
これは今も変わらない。山で使ったマナスルの石油コンロが、今も家のどこかにある。錆びてもいない。捨てる気にもなれない。あの雪渓の夜、あのコンロで何を煮たのか、もう覚えていない。それでも捨てられない。
物には記憶が宿る、と私は思っている。捨てることは、その記憶の一部を手放すことだ。だから捨てられない。合理的ではないとわかっている。それでも捨てられない。
大学一年の春、初めて自分の給料で車を買った。日産チェリーだった。五、六万円。暴走族が好んで乗る車だった。OHVエンジンのくせに、アクセルを踏むと瞬時に回転が上がる。オートバイのエンジンかと思うくらい、よく回った。ソレックスのツインキャブレターは、六百キロのボディを軽々と走らせた。高速では百八十キロを超えることができた。
温まるまでは気難しかった。しかしいったん温まると、その本性を現した。
その車で、後に今は亡き妻とドライブに行った。ずいぶんと世話になった車だった。燃費はひどかった。リッター五、六キロしか走らないこともあった。それでも手放せなかった。
塾のハイエースバンのミラーを割ったことがある。慌てて部品商まで自分で買いに行き、弁償した。筒田先生は何も言わなかった。それが一番応えた。
ハイエースで丹沢へ行った。小学部の子どもたちを乗せて、区政の教師たちと一緒だった。行きも帰りも車の中はどんちゃん騒ぎだった。下山後のラーメンが、やけにうまかった。沢で汲んだ水で淹れたお茶も、コーヒーも。喉が渇いていたせいだけではないと思う。
臼杵山にも登った。五月の山だった。薫風が吹いていた。沢に差し掛かったとき、私は先頭に立って革靴のまま飛び込んだ。冷たかった。気持ちよかった。ウールの下着は濡れても暖かかった。奥多摩の三角小屋の近くで、ロッククライミングもどきをした。
心から遊んでいるときに、恐怖は感じない。
塾は、私が大学にいた四年間で大きく変わった。最初は府中町に一か所だけだったものが、東府中、聖蹟桜ヶ丘、ケヤキ並木通りの四階建てビルと、四か所体制になっていた。生徒数は千名を超えた。教師団も三十名を超えたと思う。
夜遅くまで残って勉強する生徒がいた。深夜の二時になることもあった。そのたびに院長は自ら車で生徒を送り届けた。嫌そうな顔を、一度も見たことがない。
夜飯は筒田先生の奥さんが塾に来たときにメモを取っていた。私はかつ丼か親子丼が多かった。ケヤキ並木のビルの隣がラーメン屋で、そこで食べた記憶もある。いつも腹が減っていた。
あの頃の空腹が、今も体のどこかに残っている気がする。
(つづく)R080331

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