自分と意見が違っても、面白いものは面白い (「豚の棺桶」:ブログ作者タイトル)
「正しさ」は人の数だけある。
厳密に言えば、「自分の意見とまったく同じ」人間など存在しません。原子力安全委員会の専門委員をやっていたときのことです。
私は原発の安全対策、安全研究にもっと予算を充てるべきだと思っていました。だからこんな提案をしました。
「国民の多くが原子力発電所に不安を持っています。だから、この場でも、原子力発電所は危険であるという仮定に立った議論をしませんか?」
原子力発電所に関わっている人間は「原発は安全だ」と思ってやっているわけです。しかし、国民のすべてがそうではない。だったら「危険」という前提で予算を組みませんか、と言ったわけです。委員の皆さんは、ポカンとしていましたね。「原発は危険だ!」とやると門前払いで話を聞いてくれませんから、こっちも事前に作戦を練って、「私も原発は安全だと思っています」と、「仲間」であることを強調しながら提案したのですが、「何をおかしなこと言ってるんだ?」という反応でした。
私は、「自分たちが正しいと思っていることをいったん棚上げして、自分とは違う意見の側に立って、ものを考えましょう」という提案をしたのです。
デザインの話を例に挙げましょう。
私はひょんなきっかけから、現在、多摩美術大学でデザインの講座を持っています。門外漢の私が何を教えるのか、と思われるかもしれませんが、ここでは「ものの見方」を教えているのです。
こんな課題を出したことがありました。「プタの生姜焼き定食の皿のデザインをせよ」というものです。すると学生たちは皆、ブタの生姜焼きがおいしく見える、という観点で皿をデザインしてきました。当たり前ですね。でも私は言いました。「これではダメだ」と。
私は学生たちに言いました。
「食べられるブタの身になってデザインしてください。皿は、いわばブタの棺桶なんです。どういう棺桶ならばブタは喜ぶのか。ブタの立場でものを考えてください」
例えば、街路樹でもそうなのですが、街路樹は人間にとっては、「見る」だけなんです。しかし街路樹からしてみれば、そこで生きている。街路樹にとっての快・不快があるはずなのです。私たち人間は、実は、街路樹の快・不快も、無意識下できちんと感じ取っているのではないか、と私は考えています。街路樹にとっての心地よさとデザインが一致したとき、どちらの側にとっても素晴らしいものになるのではないか、と、こう思うわけです。
ブタの生姜焼き定食の皿をどう見るか。立場によって、見え方がまったく異なる、ということです。さまざまな立場を理解することで ―――「心で動く」ということですね――― 多摩美の学生たちのデザインはハッキリと変わりました。学内からも学外からも、「デザインに深みが出た」と評価されるようになりました。
『「正しい」とは何か?』武田邦彦著 小学館より