日本には資源がありません。その代わり工業製品を作り資源を消費しています。それを逆手にとって、資源を資源国から輸入し、それを使った後、焼却して人工鉱山に貯めます。この手順は複雑に見ればいろいろありますが、製造工程や消費過程から少し離れて見れば、「資源を資源国から消費国に移動している」操作にすぎません。日本にとってゴミの焼却と灰の貯蔵は資源枯渇時代にあってまたとない機会なのです。地球上の資源が枯渇するのは良くないことですが、せめて自国に資源を持ちたいものです。
しかし、そのためには分別したり、大型ゴミを分けたりしてはダメです。資源はいろいろな形をしてさまざまな場所に入っています。どの場所にどれがあるというも のではありません 。銅線の「銅」は人問の目に見えますが、プラスチックの安定剤に使用されている「銅」は見えませんし、プラスチックの中に入り込んでいます。さらに電子回路には貴重な元素が多く使用されていますが、細かい電子回路を分割して一つ一つの資源を分別することは不可能です。
大型ゴミも大型ゴミとして出したり、家庭電化製品や自動車をそれぞれ分けてゴミの処理をすると失う資源が多くなります。工業製品は複雑な構造と複数の資源を組み合わせており、その中から特定の資源を取り出そうとすると、「歩留まり」が悪くなって人工鉱山の回収率が低くなるからです。まず、自分が生活をする上ではどうしてもある程度の廃棄物が出ることを認めることです。その廃棄物には「自分か自分の周りで処理するもの」、「近くの自治体で処理するもの」、「遠くに運ぶもの」の三種類があります。生ゴミ、水、紙などはできれば自分の庭や近所で処分したいものです。
「そんなことはできない。廃棄物を処理するのは自治体の仕事」
などといわないようにすることも大切です。もともと人間が誕生してから江戸時代、そして明治時代あたりまでは自分で出した廃棄物は自分の近くで処理するのが当然だったからです。それができなくなったのは社会が高度化したことと、私たち自身の物質の使用量が増えたことによります。だからまず自分の周りで処理するようにします。
どうしても処理できないものは自治体にお願いします。廃棄物の発生場所にできるだけ近い自治体が、できるだけそのままの状態で全量を焼却します。そうすれば、複雑な材料の組合せからなる製品もその資源を回収することが可能となります。
建築廃材や自動車、そして家を建て替えるときなど日常的な活動ではない状態で出る廃棄物についてはそれが、環境を破壊しない限度で集中的に処理するのも良いと考えられます。たとえば、鉄橋を取り替えるときに出る鉄や、自動車のシュレッダーダストからの金属類の回収、電線からの銅の回収、アルミサッシなどが相当します。しかし、それらはある程度「特殊なリサイクル」と考えるべきです。個別のリサイクル系を組み立てると、必ず資源はそこである程度の歩留まりで捨てられてしまうからです。
かくして取り出された灰はそのままそっと貯蔵して、来るべき資源枯渇の時代に備えるのです。
つまり、もしこのまま日本でリサイクルをして回収した資源を消費すると、二一世紀に資源国の資源が枯渇したときに、同時に日本も資源を失います。日本は資源がないのですから、日本の資源を温存することができません。もし、日本が現在の形のリサイクルをやめて、廃棄物はすべて焼却し、人工鉱山に備蓄するとします。やがて資源国の資源が枯渇してくるころ、日本にはそれまで使った資源が人工鉱山として貯まっていることになります。
資源国から資源を輸入して消費するというように捉えるのではなく、資源を日本で一度使わせていただいてから、日本で貯蔵すると考えるのです。石油や石炭を除く元素系の資源は将来、厳しい枯渇が予想されますが、人工鉱山によって救われます。
ここで、「人工鉱山の構想は日本だけが良くなるもので、地球環境とは無縁だ」という批判があると思います。それはもっともなことなので、それについて若干触れたいと思います。
『リサイクル汚染列島』(青春出版社)武田邦彦著より
