私たちは長寿を願います。できれば一〇〇歳、さらに二〇〇歳程度まで生きられればよいと願う人も多いと思います。しかし、人生は長くても八〇年、人によっては三〇歳、四〇歳で突然の終わりが来ます。それでも現代の日本は人類の歴史上、信じられないほど寿命が長いのです。ネアンデルタール人の時代には平均寿命は一五歳程度、それから少しずつ延びましたが、ギリシャ時代、ローマ時代、そして近代の産業革命が起こる頃、日本では江戸幕府までは平均寿命は二五~三〇歳だったのです。
それが産業革命によって物質の供給が豊かになり、医学も徐々に発達して、一八四〇年にはイギリスの平均寿命が四三歳になり、二〇 世紀初頭には長寿で有名なスウェーデンの平均寿命が五〇歳を超えました。人間が誕生してから四五〇万年。ほとんどの人類は二五~四〇歳でその寿命を終えたのです。
しかし私たちはさらに長寿を期待するでしょう。現実は一〇〇歳を超えるのは難しいかもしれません。「希望」と「現実」は必ずしも一致しないのです。
リサイクルの矛盾はそこに根があります。
私たちは文明生活を送っています。それによって長寿を保ち、快適な生活を送っているのです。
長寿は単に医学の発達だけではダメで、生活の基盤自体がしっかりすることが求められます。たとえば冷蔵庫の普及は食品の安全を高めます。氷も何もないときには食品貯蔵という問題はとても大変なことでしたし、氷があってもチフスなどの急性で激烈な病気は後を絶ちませんでした。
テレビの普及も平均寿命を長くするのに役に立つといわれています。テレビは娯楽であるとともに国民の平均的な知識レベルも上げることができます。若いお母さんが適切な育児の知識や衛生についての判断力をつけることによって乳幼児の死亡を減らすことができるとされているのです。したがって、物質文明は私たちの平均寿命の長さに大いに関係しているので、簡単に手放すわけにはいきません。
一方、このまま物質を使えば資源が枯渇し、環境の悪化を招くことも事実です。その二つは相反していて解決策がないように見えます。そこで「リサイクル」が登場してきます。リサイクルは「ものを使いたい」「しかし、資源はなくなりゴミは満杯になる」という希望と現実を解決する手段として考案されましたが、残念ながら「非現実的」な方法であったということです。
このことを別の角度から見ることにします。
ものごとには「目的」と、それを達成する「手段」があります。リサイクルの場合には、その目的は「環境を守り、資源を節約する」ことです。その目的のために「リサイクルという手段を使う」のであり、「リサイクル」が目的ではありません。しかし、たびたび起こるように、また日本では特にそうであるように、本来手段である「リサイクル」が「目的」になってしまいました。
リサイクルはあくまで環境を守ることができそうな手段の一つですから、「環境を守るためにリサイクルをしてはいけない」という論理はあり得ますが、「リサイクルしないから環境を無視している」というのは論理が逆転しているのです。
しかし、多くの人が環境を守るという目的とリサイクルという手段を取り違えていますし、「紙をリサイクルすると熱帯雨林が消滅する」という話も、「紙のリサイクル」自体が目的化しているので、無関係のものが結びついて一般化してしまっているのではないかと思います。
「ものを使いたい」という希望はわかりますが、「リサイクルはできない」という現実も存在します。現実を無視して希望を達成することはできないのです。
『リサイクル汚染列島』(青春出版社)武田邦彦著より